『情報プレゼンター とくダネ!』は、30年以上続いた朝の情報・ワイドショー番組として人気を獲得。プレゼンターを務めた笠井信輔さんは同番組を支え、まさに番組に捧げた人生でした。そこで得た「ガムシャラに働く」には、光と影があったといいます。(全5回中の3回)
「干されて、叱られた」新人時代からの挽回劇
── フジテレビ入社後はどんな生活が始まったのでしょうか?
笠井さん:入社後はスポーツアナウンサーとして、競馬やスポーツの班に配属される予定だったらしいんです。私自身はそれをまったく知りませんでした。
私たち新人アナは入社1週間で生放送番組に出演し、自己紹介と将来の夢や目標を語る機会を与えられました。そのときに私は「ワイドショーの司会者になって、ニュースキャスターになりたい」と話したんです。それがアナウンス室で大問題になりました。
── 目標を語ったのが、なぜ大問題になったのですか?
笠井さん:入社前は、当時世間を騒がせていた「ロス疑惑」に関する情報を得ることが大好きで、ワイドショーばかり見ていました。ところが、OB訪問をしたら「ワイドショーが好きという理由だと、軽く見られて入社試験に受からない。嘘でもいいから『スポーツ報道に行きたい』と言いなさい」とアドバイスされて。就職活動の面接では、「スポーツ報道」希望で通していたんです。
それなのに、突然生放送で「ワイドショーに出たい」と言い出したから、「話が違う」となったんですね。たまたま同期の塩原アナ(現・フリーアナウンサーの塩原恒夫さん)の配属がまだ決まっていなかったから、彼がスポーツアナウンサーとなり、私はどこにも配属されませんでした。入社してしばらくは、上司から怒られてばかりでした。
── それでは、社内での居心地が悪かったのではないでしょうか?
笠井さん:毎日、根性を叩き直されるんじゃないかというくらい叱られ、居場所がなかったです。
すると、入社した年に東京・晴海の東京国際見本市会場で『コミュニケーションカーニバル 夢工場'87』というイベントが始まりました。もともとイベントが大好きだったから、「なんでもやります」といって、2か月間ほどイベント会場にほぼ常駐し、司会などをしていました。
会社に行かなくてよかったので、とても楽しい経験でしたが、どうやら先輩方からすると、遠い晴海でのイベント業務はあまり引き受けたいものではなかったようです。それで、「笠井は大変なことを全部引き受けて偉いな、ありがとう」とほめられまして。「面倒な仕事も積極的に引き受ける新人」として、地位を回復できたんです(笑)。
そして10月。ワイドショーのリポーターをやらないかと声をかけられました。それが約30年間続くワイドショー生活の始まりです。35歳で『情報プレゼンター とくダネ!』のサブ司会を担当することになりました。
『とくダネ!』担当中はずっと3時間睡眠だった
── 月曜日から金曜日まで放送されていた『とくダネ!』でしたが、帯番組を担当しているころはどんな生活を送っていましたか?
笠井さん:とにかく忙しかったです。私はMC兼プレゼンターだけではなくリポーターも兼任していました。大事件があるとすぐ飛び出して現地まで取材に行き、番組で報道する。日々めまぐるしかったです。24時ころに就寝して、早朝3時に会社の車が迎えに来る、3時間睡眠の生活を20年間続けていました。
しかも、社会の動きに精通していないと、何かあったときにすぐ反応できません。テレビや新聞は必ずチェックし、映画や芝居を観たり、人に会って人脈を広げたり、情報はつねにアップデートするよう心がけていました。
── 毎日、テレビの前に立っていると、精神的にも変化があるのではないでしょうか?
笠井さん:気持ちを切り替えるのがうまくなりました。たとえば、1週間に1度しか放送されない番組で失敗すると、次の放送がある翌週まで「どうしてあんなミスをしたんだろう」と、くよくよしてしまいがちです。
帯番組だと、どんな大失敗をしても、翌日も出演しなくてはいけない。言い間違いや原稿をかんでも、いつまでも引きずらず、心機一転させる必要があります。
もちろん、情報を伝えるのは非常に大事な仕事です。失敗した際、反省は欠かせません。とはいえ、落ち込みすぎると、心を病んでしまうんです。アナウンサーは周囲から多少何か言われても気にしない「鈍感力」が、ある程度ないと務められない仕事だと思います。
ただ、あまり鈍感すぎると、スタッフや視聴者が離れていきます。周囲を気づかう細やかさと、多少のことではへこたれない精神力の両方が必要だと思います。
── アナウンサーとして情報を伝える際、心がけていたことはありますか?
笠井さん:「喜怒哀楽を大切にすること」です。「喜び」と「楽しさ」の部分は視聴者の方から共感を得やすく、アナウンサーも表現しやすいです。でも、「怒り」や「悲しみ」は、あらわにしすぎると「感情的すぎる」と批判されてしまう。
それでも私は、悲惨な事件の現場や怒りが渦巻くような局面に立ち合ったとき、自分が抱いた悲しみや怒りをあえて表現していました。そうすることで、視聴者の方に現場の臨場感が伝わったのではないかと考えています。
最近のアナウンサーは、どんなことでも整った形で伝えようとしているというか、皆、報道スタイルが似ているように思います。後輩を指導するときは「個性を大事にしていい」と伝えていました。
私のように感情を伝える方法でもいいし、それ以外の方法でもいい。模範的なやり方をめざすのではなく、自分なりの方法を模索したらいいんだと思います。
泥臭い仕事も大事だけど「際限なく働くのもダメだと」
── 後輩アナウンサーの指導もされていたとのことですが、世代の異なる後輩と接する際、感じたことはありますか?
笠井さん: いまの若い人は、優しくて繊細な子が多い印象です。空気が読めて優秀な一方で、すぐに心が折れやすい気がします。できるだけ叱らないよう、丁寧に指導していました。
私たちの時代のアナウンサーは、ときには長時間張り込んで当事者の声を聞くなど、取材の機会が多くありました。華やかな職業だと思われがちですが、泥臭い仕事も多いんです。
若い人たちは「地味な仕事は生産性がない」と嫌がる人が少なくありません。目立たない部分での努力も必要だと若い人に理解してもらうには、苦労しました。
とはいえ、やっぱり働き方は変わってきています。私が若いときは「睡眠時間を削り、がむしゃらに働く」のが美徳とされていました。でも、20年間、3時間睡眠を続けてきた『とくダネ!』のメインキャスターだった小倉智昭さんは膀胱がんに、同じ生活をしていた私も悪性リンパ腫と、大病を患ってしまいました。
ムリを重ねるのは心身ともに負担が大きいと身をもって痛感しました。「働き方改革」で、働き方は大きく変わってきています。これは身体にも精神的にも正しいことだと感じます。
PROFILE 笠井信輔さん
かさいしんすけ。1987年 早稲田大学を卒業後、フジテレビのアナウンサーに。朝の情報番組「とくダネ!」を20年間担当後、2019年9月末日に33年勤めたフジテレビを退社し、フリーアナウンサーとなるが2か月後に血液のがんである悪性リンパ種と判明。4か月半の入院、治療の結果「完全寛解」となる。現在、テレビ、ラジオ、講演、がん知識の普及活動など幅広く活動している。
取材・文/齋田多恵 写真提供/笠井 信輔