今や日本を代表する国際派俳優としてその名を知られる工藤夕貴さん。アイドル活動から一転、海外での仕事に挑戦しようとしたいきさつや、ハリウッドの撮影現場でのお話を伺いました。

アイドルでも俳優でもない自分に葛藤

── スカウトされてデビューするやアイドルとして人気を集め、数々のドラマや映画など活躍の場を広げて行かれた工藤さんですが、海外に進出することになったきっかけを教えてください。

 

工藤さん:14歳の頃、方向性が見えなくて悩んだことがきっかけですね。歌手を目指して芸能界入りしたものの、歌手より俳優活動のほうが増えていったり、ヒットするだろうと思われていた曲の売り上げが伸び悩んでしまったりしていて。

 

また、当時のアイドルの演技はちょっと下手なほうがかわいいみたいな風潮があって、私は名前が売れる前は演技の仕事が中心で、最初から「本気の役者扱い」をされる現場で鍛えられてきたこともあり、真剣に一人の役者としてやってきたのに、よくも悪くもいつまで経っても「アイドル扱い」。つまりアイドルらしいアイドルではなかった私は現場が求めるアイドルとしての演技もできてなくて、とても中途半端で嫌だったんです。なんなんだろう自分はと。

 

アイドルと俳優の狭間で悩んでいた
アイドルと俳優の狭間で悩んでいた

── アイドルにも俳優にもなりきれず…といった苦悩がおありだったんですね。

 

工藤さん:さらにその頃、いろいろと辛いことが重なるんですけど、当時売れっ子のアイドル男性と共演したりすると嫌がらせの手紙が送られてきて怖い思いをしたり、地方で歌の仕事に行った際には生卵を投げつけられたこともあり精神的にショックなことが続きました。

 

しかも、デビューするときは「最高のアイドルになれる!」と、すごく褒められたのに、歌が売れなくなったら「あなたは生意気でしゃべりすぎる」とか、これまでそれがいいと言っていた大人たちが手のひらを返したように「だからそれがダメなんだよ」と言い始めて人間不信に…。

 

令和の時代では、自分の意見を持ち、何でも発言することがよしとされていますが、当時アイドルはしゃべっちゃいけない時代で、謙虚に何も自分の意見を持たないことがいいとされていた。私は自分の言葉で主張するタイプだったから、それで叩かれ始めたんです。

 

アイドルで売れると思われていたときは当時のさまざまなアイドル雑誌でレギュラーを持つようになり、編集者の方がまるで親戚のように仲良くしてくれたのに、売れないと離れていく。あんなによくしてくれていたのに結局は「仕事のうえでのつきあい」でしかないんだなと思い知るわけで、子どもでしたし余計に傷ついたりしましたね。

 

── 社会に出るにはまだ幼い14歳の少女にはつらい出来事ばかりでしたね。

 

工藤さん:私生活でも、学校では芸能人の娘ということでからかわれてしまうことも多く、友達の輪に入れない寂しさがありました。あえて一匹狼のようにふるまったりして。あげくに、家では父親が不祥事を起こしたりと、もう八方ふさがりの時期でした。

 

そのように悩んでいたときに、ある監督さんが「アメリカは実力社会だからどんなに大物でも仕事を得るためにはオーディションが必要なんだ」と教えてくれたことがすごく刺さりました。

 

ある程度アイドルとして名前が売れたら一般のオーディションから声が掛からなくなり、オーディションをしなくても役が来るようになるんですけど、逆に自分がやりたい役でもチャンスが巡ってこないんですよ。オープンマーケットではないから。自分から役を取りに行くチャンスがないんですね。それで、海外に挑戦しようと決めました。

 

後に出演する『ミステリー・トレイン』の現場で
後に出演する『ミステリー・トレイン』の現場で

14歳でしたけど、その目標ができたおかげで辛いことを全部乗り越えられたって感じなんです。この目標がなかったら、おそらく人間として潰れていたんじゃないかなと。私って、何か常に挑戦しているほうが調子がいいんですよね。守りに入るとダメな性格というか。

ついにオーディションで役を勝ち取り海外デビュー

── 14歳にして海外を意識されてからは、どのようなことをなさったんですか?

 

工藤さん:まず英語力が必要だなと思い立ち、英語の勉強を始めました。本を買って勉強したりと独学なんですけど、当時は今と違って英語を実践できるところが少なかったのでテレビのお仕事の現場で当時の名だたる外国人タレントさんたちにお願いして、例えばケント・ギルバートさん、チャック・ウィルソンさん、ケント・デリカットさんなどなど、お会いするたびに楽屋や現場で英語をしゃべってもらったりしていました。

 

知人に紹介してもらったイギリス人のお宅に国内ホームステイさせてもらったり、英語のラジオ放送を聞いたりとか、当時できることは何でもやりました。

 

『ミステリー・トレイン』の撮影現場
『ミステリー・トレイン』の撮影現場

── そんなときアメリカ映画の『ミステリー・トレイン』(1989)に出演が決まりますよね。そこからハリウッド映画への出演に弾みがついたのでしょうか?

 

工藤さん:初めて出演した映画『逆噴射家族』(1984)をジム・ジャームッシュ監督が見てくれてオファーをいただき、『ミステリー・トレイン』の台本を見せてもらってすぐに「やりたい!」と。そこからアメリカ映画『ピクチャーブライド』(1994)、ラッセル・クロウと共演したオーストラリア映画『ヘヴンズ・バーニング』(1997)と海外作品にも出演していきました。

 

── そして工藤さんの代表作のひとつ、ハリウッド映画『ヒマラヤ杉に降る雪』(1999)の主演でハツエ役をオーディションで勝ち取ったのもこの頃でしたね。

 

工藤さん:当時オーストラリアで映画を撮ったときお世話になったプロデューサーのお友達が『ヒマラヤ杉~』の監督スコット・ヒックスだったんですね。彼がアジアン・アメリカンの女性俳優のオーディションをしているんだけど、ピンとくる人がいないと相談してきたそうで、その方が監督に「『ヘヴンズ・バーニング』のユウキ・クドウはどうなの?」って提案してくれて。

 

主演を勝ち取った映画『ヒマラヤ杉に降る雪』
主演を勝ち取った映画『ヒマラヤ杉に降る雪』

すぐにオーディションテープを送ってもらえないかと連絡が来ました。原作を読んだらめちゃくちゃいいお話だったので「これはどんなことをしても私が役を取りたい!」と。後にも先にもあんなに役を渇望したことは一度もないと思います。

 

一次審査に通って、ハリウッドに単身オーディションへ。そしたら直前に出た作品がオーストラリア英語だったので、私の英語がかなりダメ出しを受けてしまって。Dialect(方言)のコーチにみっちり矯正を受けて、2回目のオーディションで役が決まりました。

 

── 共演された、あのイーサン・ホークもオーディションで決まったそうですね。

 

工藤さん:そうなんです。「メインの主役もオーディションで決まるんだ!」と、私も思いました。2回目の審査でイーサン・ホークが「今日は僕のオーディションだから緊張するのは僕の番。君は緊張しなくていいよ」って言われたのをすごく覚えてます。

『チャーリーズ・エンジェル』のオーディションも経験

── 数々のオーディションに挑戦なさったかと思いますが、学んだことや発見などはありましたか?

 

工藤さん:『チャーリーズ・エンジェル』のオーディションを受けたときは、最後のほうまで進んだんですけど、残念ながら残れなくて。というのもハリウッド映画では目が釣り上がっていて、アクションもできるドラゴンレディと言われる東洋人がよく求められていて、私なんかは強そうな感じが出せてないですよね(笑)。そういうことに気づいたり。

 

唯一ドラゴンレディ的な役をやったのは『ラッシュアワー 3』(2007)でジャッキー・チェンを狙う暗殺者をやったときくらいですかね。

 

『ラッシュアワー 3』の撮影現場
『ラッシュアワー 3』の撮影現場

──『ラッシュアワー 3』では、背後からジャッキーに飛びついてナイフを投げる難しいアクションシーンはすごかったですね!ジャッキー・チェンさんは現場ではどんな方なんですか?

 

工藤さん:チームをまとめるのがすごく上手でしたね。週に一度は必ずジャッキーナイトじゃないけど何十人も連れてご飯を食べに行ったりして、面倒見がよくてみんなのお兄さん的な存在でした。俳優だけにとどまらず、もはやビジネスマンですよね。ビジネスマンとしてすごいなと思った。日本人と違って強い。

 

日本人はアメリカ人に気に入られようと気をつかうところがあるけど、アメリカ人に気をつかわせるくらい対等でした。そういう様子を見ていかに自分が謙虚な日本人で育ってきたかに気づかされました。「こうでなきゃアメリカでは通用しないんだよな」って勉強になりましたね。

 

それまで、『SAYURI』(2005)に出演したときに、作品の日本の描写に違和感を感じていて。「日本の文化に対する理解があまりないのでは?」と。自分としては、日本の文化だからこそ映画に入る前にもう一度、礼儀作法や和服での所作や三味線や日本舞踊を習って役作りの準備をしましたけど、そういう部分はそんなに必要とされませんでした。

 

実際、私以外の芸者役の方は、日本的な所作が身についていらっしゃるわけではなく、それはそれで映画は成り立つんですけど。私としてはこだわりたいところだったというか。そういう意味では、作品作りに関わる際、謙虚すぎては通用しないんだということをジャッキーの姿勢を見て振り返り勉強になりました。

 

ジム・ジャームッシュ監督と
ジム・ジャームッシュ監督と

 

PROFILE 工藤夕貴さん 

1971年生まれ。東京都出身。1983年芸能界デビュー。映画『逆噴射家族』(1984)でヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞。アメリカ映画『ミステリートレイン』(1989)出演以降、海外作品でも活躍。『戦争と青春』(1991)では日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。主演したハリウッド映画『ヒマラヤ杉に降る雪』(1999)ではアカデミー賞など多くの賞にノミネートされた。主な出演作に『SAYURI』(2005)『ラッシュアワー3』(2007)など。帰国後は静岡県に広大な土地を購入し俳優業の傍ら、無肥料、無農薬の自然農法で農業を行っている。昨年は父である歌手、故・井沢八郎の代表曲「あゝ上野駅」を娘として歌い継ぐべくカバー。感銘を受けた五木ひろしがアンサーソングとなる「父さんみてますか」で作曲に関わり、カバー曲と併せて収録したCDをリリース。演歌に初挑戦し新たな一面も話題となっている。

取材・文/加藤文惠 画像提供/工藤夕貴