今や日本を代表する国際派女優としてその名を知られる工藤夕貴さん。12歳の頃、スカウトされたのをきっかけに、当時、歌手である父、故・井沢八郎さんの娘であることを秘密にしてデビュー。さまざまな葛藤があった当時のことをお聞きしました。
芸能界入りに親は猛反対!
── 工藤さんが芸能界に入ったのは、中学1年生の頃にスカウトされたことがきっかけだったそうですね?
工藤:当時、八王子に住んでいたんですけど、中学1年生の春休みに「東京に買い物に行きたいね!」と友人と渋谷に出かけたんです。その日はたしか友人とお揃いの格好で、Tシャツとジーパンにサスペンダーをつけておしゃれして。
2人でお揃いの格好をしているからスカウトマンに「『君たち、ピンクレディみたいになりたくない?』なんてスカウトされたりしてね!」なんて話してたら、ほどなくして「ねえ、君」って本当に声かけられたんです。
あまりにも筋書き通りにスカウトされたので「この人、絶対インチキスカウトマンに違いない!」と思って(笑)。父は歌手の井沢八郎でしたし「親が芸能人とわかったらインチキスカウトマンもびっくりするだろうな」と思って、家の電話番号を教えて帰ったんです。
八王子に帰宅して家族や友人に話したらみんなインチキだろうというので私もそう思っていたんですけど、そしたら電話がかかってきて本当の芸能事務所だったんですよ。
夏休みに入る頃、芸能界入りするかで悩みました。実は、両親は芸能界入りに反対だったため、母は事務所に断りの電話を入れる準備までしていました。でも、私はこれまで褒められることが少ない環境で育って、コンプレックスも強く、自分には何もいいところがないと思っていたときだったので、事務所の人に褒められたり、期待されたのがすごくうれしかったんです。
いろいろと家庭の事情もあって「自立したいな」と思っていたこともあり「迷惑かけないから、芸能の仕事させて」と半ば土下座の状態でお願いしました。結局、両親とも私が強く希望したので「やってみる?」と折れてくれて、仕事を始めたんです。
── 芸能事務所に入ることになりデビューするわけですが、お父様が芸能人であることは伏せて活動をスタートさせたそうですね?
工藤さん:当時の事務所の社長が「芸能人の娘という触れ込みがなくても、彼女ならいけるのでは?」と言ってくれて、鳴り物入りのデビューというよりはそのままのほうがいいという話をしてくれたんですね。
私も正直なところ親の七光りではなく自分でどこまでやれるかやってみたいと思っていました。そして、自宅のある八王子からオーディションを受けに行く日々が始まりました。
オーディションに落ちたくて意図した生意気な態度がウケて
── デビュー当時のCM「お湯をかける少女」で、やかんを持ちセーラー服姿で駆けてくる姿はとてもインパクトがありましたね。瞬く間に人気が爆発しましたが、当時はどんな心境でしたか?
工藤さん:まさかそんなにCMがウケると思っておらず、びっくりしました。当時の事務所がモデルクラブのような会社だったこともあって、モデルさんが受けるオーディションにばかり行っていました。するとどんどんCMのお話が決まっていって、会社の人もみんなびっくりしていましたね。私は歌手になりたかったので、そのためなら「何でもやります!」という感じでした。
父は歌手で「歌手は歌に集中するべき」という考えの持ち主で、お芝居をやると歌手の本分がボケてしまうと言っていたんです。だから、私も歌に集中したかったんですけど、そんな気持ちと裏腹に、映画『逆噴射家族』や『台風クラブ』などの注目の集まるオーディションが来たりして。事務所からは「やりたいとかやりたくないとかではなく、決まるかどうかわからないんだからオーディションは受けたほうがいい」と言われ、意見を戦わせたりしていました。
「落ちちゃえばいいや」と思って、あえて中学生らしからぬ生意気な態度でオーディションに臨んだら、意外に決まったりして。そこが「逆にいい!」と(笑)。「役的にはそのキャラクターがおもしろいからそういう感じでいい!」と、予想に反してうまく仕事が決まってしまった。歌手になりたかったけど、CMやドラマに出たり、役者の色が濃くなっていき、いつのまにかお芝居が中心になっていきました。
子役は学校よりも仕事が優先で、現場は想像以上に過酷だった
── 中学生、売れっ子の子役として休む暇のない日々が始まったかと思います。当時はどのような日々だったのでしょうか?
工藤さん:振り返ると、正直あの頃の現場は幼いながらにほんとにつらかったですね。当時は今と違って子役は一番最初に呼ばれて最後に返される時代で、朝は始発で現場入りして帰りは終電も終わってしまい誰かのタクシーに相乗りさせてもらい、夜中に帰宅するみたいな日々だったんです。
当然、学校との両立ができない状態で。家が八王子だったため、現場との距離的な問題もあり、学校に行ってから仕事に行くというのが難しかったんですよね。当時は母が送り迎えをしてくれていたんですけど、映画『逆噴射家族』の頃とかは現場に入ってしまうと、朝早くから夜遅くまで撮影があり、結局1か月半くらい学校には行けませんでした。
当時は業界も仕事優先が当たり前のような感じで「子役はちゃんと学校に行かせないといけない」という感覚が薄い時代だったと思います。
── 子役の方たちにとって、過酷な現場だったんですね。
工藤さん:そうですね。女優さんと控室が一緒だったりすると子役は控室に入れてもらえない、なんて時もありました。自分の控室もなくてマネージャーさんもまだついてなかったので、居場所がないまま衣装で待機するわけですけど、それが水着だったり。しかも冬だったので、雪が積もるなか冷たい風が吹き込むところで機材用の養生に使うような毛布を借りて床に敷いてそこで待ったこともあったなぁ。40年くらい前の話ですけどね。
撮影でNGを出したりすると食堂の食券がもらえないなんてこともありました。でも、そんなとても悔しい思いをしたことで、そういう思いがバネになって「いつか名前が売れたらこんな扱いされない人になってやるんだ」と思って、仕事を頑張ろうという気持ちがいっそう高まりましたね。
PROFILE 工藤夕貴さん
1971年生まれ。東京都出身。1983年芸能界デビュー。映画『逆噴射家族』(1984)でヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞。アメリカ映画『ミステリートレイン』(1989)出演以降、海外作品でも活躍。『戦争と青春』(1991)では日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。主演したハリウッド映画『ヒマラヤ杉に降る雪』(1999)ではアカデミー賞など多くの賞にノミネートされた。主な出演作に『SAYURI』(2005)『ラッシュアワー3』(2007)など。帰国後は静岡県に広大な土地を購入し俳優業の傍ら、無肥料、無農薬の自然農法で農業を行っている。昨年は父である歌手、故・井沢八郎の代表曲「あゝ上野駅」を娘として歌い継ぐべくカバー。感銘を受けた五木ひろしがアンサーソングとなる「父さんみてますか」で作曲に関わり、カバー曲と併せて収録したCDをリリース。演歌歌手に初挑戦し新たな一面も話題となっている。
取材・文/加藤文惠 画像提供/工藤夕貴