女子マラソンの五輪金メダリスト・野口みずきさん。社会人2年目で経験した無職時代が転機となってプロ意識が芽生え、やがてアテネ五輪で金メダルを獲得するまでにつながったと言います。熱中症の選手が相次ぐ過酷なレースを制することができた裏側を聞きました。(全3回中の2回)

社会人2年目で会社を辞めた“ハローワーク時代”が人生の転機

── 現役時代は「ハーフマラソンの女王」と呼ばれるほど活躍した後、2002年にフルマラソンに転向しました。記録は順調に伸びていったのでしょうか?

 

野口さん:そうですね。実業団に所属してすぐではないですが、ハーフマラソンもフルマラソンもトラックも全部記録が伸びていきました。そのきっかけとなったのが社会人になって2年目の1998年10月から4か月間、どこにも所属していない“ハローワーク時代”を経験したことです。当時ワコールに所属していたのですが、会社側と監督やコーチの意見が合わず、監督やマネージャー、コーチなどほとんどのスタッフが辞めることになったんです。そこで私も監督についていく形で同期の選手と一緒に会社を辞めました。

 

その後は所属先を探しながら練習をこなし、さらにスタッフと選手だけで栄養管理をするのが大変でした。企業に所属していれば、栄養士さんが栄養計算をして調理士さんが調理をしてくれたものを食べるだけだったのですが、練習しながら交代で料理をするなど自分たちだけで何とかしなくてはいけなくなりました。その時に、サポートしてくださる方がいることのありがたさや、お給料をいただきながら自分の好きな陸上競技に打ち込ませていただける環境への感謝の気持ちが強くなり、プロ意識が芽生えました。

 

さいわい4か月後、陸上部を新設するグローバリーという会社に所属できることになったのですが、その恩は結果で返すしかないと決意しました。なので、一緒に移籍した同期も私もどんどん記録が伸びていきました。

 

ハーフマラソンの女王時代
ハーフマラソンの女王時代

──4か月間実業団を離れ、無所属の状態があったことがマラソンに本気で取り組むきっかけとなったのですね。

 

野口さん:そうです。あの4か月間は私のマラソン人生の中のターニングポイントでした。そこからすべてが始まったと思います。あの経験がなかったらここまでがんばれただろうか、と思うくらい重要な時期だったと思います。

 

── 不安はなかったのでしょうか?

 

野口さん:なかったです。一緒に会社を辞めた同期ともすごく仲がよくて姉妹のように過ごしていましたし、練習以外ではバカなことばかり言い合ったりして寂しくはなかったです。二人とも結果がどんどん伸びていたこともあり、チーム自体が注目されて新しい選手が入ってきて、2001年の淡路島女子駅伝では初出場で優勝するまでになりました。翌月の全日本実業団対抗女子駅伝競走大会(岐阜県)では5位に入賞するほど強いチームになりました。ただ、急成長の裏側でケガをする選手も増えて、私はマラソンに専念しようと決めました。

 

“ハローワーク時代”の野口さん(左)
“ハローワーク時代”の野口さん(左)

アテネ五輪では「誰よりも練習してきた」ことが自信に

── その後、2004年にアテネオリンピック女子マラソンで見事、金メダル獲得。酷暑の中でラスト10kmはヌデレバ選手の猛烈な追い上げがあり、ゴール後は具合も悪そうでした。そんな過酷なレースを制することができたのはなぜですか?

 

野口さん:自信があったからです。参加選手の中で誰よりも練習をしてきた、という自信はありました。元々あまり緊張するタイプじゃないんですが、さすがにオリンピックという舞台でスタート前は少し緊張していました。でもスタートラインに立った瞬間「絶対に私はこの中で一番練習してきた」 と思えて、ピストルが鳴ったらもう前に飛び出していました。

 

ゴール後、具合が悪くなったのは軽い熱中症になっていたからです。本当は最初の10~15kmくらいですでに気持ちが悪かったんです。でも先頭を走っているので、目の前に大きなトラックに乗った各国のカメラマンが私のほうにカメラを向けてくれていました。もしここで吐いたりしてしまったら、世界中に気持ち悪い映像が流れることになる!我慢しなくちゃ!と言い聞かせていたらスーッとラクになりました。その後、気がついたらスパートをかけるタイミングがあってゴールしていました。ゴール後はさすがに緊張の糸が切れて、ホッとした瞬間に気持ち悪くなっちゃいました。

 

金メダルをとった2004年のアテネオリンピック女子マラソンの様子
金メダルをとった2004年のアテネオリンピック女子マラソンの様子

── オリンピックに向けては具体的にどんな練習をされていたのですか?

 

野口さん:とにかく土台づくりですよね。レースに出場するには準備に3か月かかるのですが、最初の1か月はトータルで1370km走りました。2か月目に1350km走り、3か月目は調整に入るので900kmくらいです。

 

── すごい距離ですね!日本列島の長さが約3000kmだから、日本の半分近くを1か月で走ったことになりますよね。3か月かけて日本の端から端まで余裕で走っていらっしゃる。

 

野口さん:それはわかりやすいたとえですね!もちろん、距離をただ走ればいいというものではなく、走りの質も上げなくてはなりません。40km走はもちろん、ショートのインターバルやスピード練習も入れるなど、目標達成のためにどれだけきつい練習でもやってやる、という思いで取り組んでいました。最初の1か月間は中国の昆明で高地トレーニングを、2か月目は時差調整も兼ねてヨーロッパ入りし、スイスのサンモリッツで合宿しながらトレーニングを積みました。

 

2001年頃。アメリカ・ボルダー合宿での練習風景
2001年頃。アメリカ・ボルダー合宿での練習風景

スイスのホテルで転倒するアクシデントがあった

── アテネの4年後、北京五輪はケガで欠場となりました。その時はどんな気持ちでしたか?

 

野口さん:北京の前にケガをしたのではなく、2005年にベルリンマラソン大会で日本新記録を出した時も実は足が痛かったんです。足が痛かったうえにとても暑い中で2時間19分12秒という結果だったので、条件がよければもっといい記録が出たんじゃないか、という欲が出たんですよね。また記録を更新したいと。

 

翌年のベルリンマラソン大会での記録更新を目指してスイスで合宿をしていたのですが、宿泊先のホテルの浴室で滑って転び、タイルの硬い床で腰を強打してしまったんです。それ以降、体幹やバランスを崩してしまった気がします。結局その年のベルリンには調整が間に合わずに断念しました。その翌年のベルリンも走ろうとスイスで合宿し、東京国際女子マラソンで優勝して大会記録を出したのが、元気で走れた最後だった気がします。

 

北京オリンピックへの出場は決まったものの、スイスのホテルでのアクシデントが響いたのか…自分を追い込んでしまい、やらなくてもいい練習をしたり調整がうまくいかず肉離れを起こしました。精神的にも追い詰められてつらい時期になりました。

 

── その後も約8年、復活を目指して走り続けていた姿が印象的です。走り続ける支えとなったのは何ですか?

 

野口さん:近くで指導してくれているスタッフやチームメイト、友人や家族といった、普段の私を日頃から見てくれている人の存在です。また、ファンの存在も大きかったです。顔の見える方もいれば、手紙やメールで応援してくださる方もいましたが、その応援の言葉に励まされて走り続けました。

 

PROFILE 野口みずきさん

のぐち・みずき。アテネ五輪(2004年)女子マラソン競技・金メダリスト。陸上競技は中学生時代からはじめ、社会人となってからは「ハーフマラソンの女王」として活躍。2002年にフルマラソンデビューとなる名古屋国際女子マラソンで初優勝し、2003年大阪国際女子マラソンで優勝。アテネ五輪を経て2005年ベルリンマラソンで当時の日本記録とアジア記録を更新した。2016年に現役引退後、結婚。現在は岩谷産業陸上部アドバイザー務めながら、マラソン大会の解説やゲストランナーとして各地を回っている。

取材・文/富田夏子 画像提供/野口みずき