ダウンタウンの番組で見いだされ、吉本新喜劇で観客を爆笑の渦に巻き込む島田珠代さん。10代でお笑いの世界に飛び込んでからの芸人人生を振り返ります。(全4回中の1回)

小4から皆を笑わせるタイプ「高2で訪れた転機」

── 島田さんは大阪・心斎橋の2丁目劇場で芸歴をスタート。新喜劇に移ってからは、座長の今田耕司さん、東野幸治さんを相手に、客席をわかせたそうですね。

 

島田さん:宇宙から来た、白タイツにブルマ姿の王子役の今田さんの足にすがりついて、ふと顔をあげて股間を「チーン!」って指ではじいてみたら、大阪のおばちゃんたちが爆笑してくれました。

 

東野さんに当時すごく憧れていたので、本気で東野さんを好きな役を演じたとき、思わず心の声が出てしまって「ワ〜オ!」って叫んだら大爆笑。

 

両方とも定番化して、いまでもやってます。お二人は私にとって神様みたいな存在で、本当によく励ましてもらい、助けていただきました。

 

島田珠代

── 島田さんのハイテンション、かつ体当たりの動きやギャグには衝撃を受けました。私の娘もよくマネしています。小さいころから、人を笑わせるのが好きだったのですか?

 

島田さん:幼稚園のころは、家ではペラペラよくしゃべって物マネなどをしていたのですが、外に行くとまったく言葉を発しない子でした。4歳から書道を習っていたので、当時の私は「書道の先生になりたい」とまわりには言っていました。

 

でも、小2のときに転機が訪れて、学校の書道の授業で先生にすごくほめられたんです。「島田の字はすごい、みんなもこういう字を書け」って。そこから学校でもしゃべるようになりました。

 

小3からは、夜7時くらいには玄関の外に出て、手を空に向けて、一番キラキラ光っている星に向かって「お笑いをしたい」ってお願いをしていました。小4からは、家での物マネを学校でも披露したりと、まわりを笑わせてました。

 

── お笑いの世界に入ったのはいつですか?

 

島田さん:高2のとき、ダウンタウンさん司会の『4時ですよ~だ』の素人参加コーナーで2回ぐらい優勝したんです。

 

そうしたら、常設劇場(心斎橋筋2丁目劇場)イベントのレギュラー権をかけた「オーディションがあるから出てみないか」と言われて。受けたら100組くらいの中の5組に選ばれ、17歳で吉本に入りました。

 

── 『4時ですよ~だ』は伝説的番組で、私もよく観ていました。女子高生でデビューですか!

 

島田さん:放課後、毎週火曜と金曜に舞台に立っていました。山田花子ちゃんは中3でレギュラー権を獲得していましたし、当時は、やるなら高校生からという人も多かったんです。

 

── 島田さんの芸風は「奇天烈、かつ女を捨てたような」と形容されていますが、当時からですか?

 

島田さん:ハチャメチャなひとりコントをやっていました。私が出ていた二丁目劇場は若い女の子のお客さんが多かったので、女っぽくしていたら全然笑ってもらえなかったんです。

 

劇場の女子トイレがファンと共用なんですけど、女っぽいコンビはそこでファンにつめよられていたので、その光景を見て「女捨てよう」と決めました。

 「笑いがとれない…」吉本新喜劇で感じた壁

── 2丁目劇場でデビューしてから、いつ新喜劇へ?

 

島田さん:2丁目劇場を立ち上げたのが大﨑洋さん(吉本興業株式会社の元社長・元会長)だったんです。でも1989年にダウンタウンさんが東京に行って、大﨑さんは新喜劇の立て直しのために異動。

 

「僕について、新喜劇にきてくれる人はいますか?」って聞かれて。私たちにとって大﨑さんはお父さんみたいな人なので、東野さん、今田さん、130Rさん、石田靖さん、山崎邦正(現在の月亭方正)さんなど、みんなでついていきました。

 

芸歴35周年記念座長公演で、関係の深い藤井隆さんと

元からの座員と新しい若手メンバーをうめだ花月の座席に座らせて、大﨑さんが舞台上でマイク持って「僕は新喜劇を新しくするので、新しいメンバーを連れてきました。このメンバーと一緒にやれる人だけ残ってください」って言ったんです。

 

古株の方は「なんやねん、それ!」「大﨑、お前が新入社員のとき、俺ら、何度飯おごったってん!」って。どこから来たかわからないような20代のメンバー40~50人といきなり一緒にやるなんて、ととまどってやめた方もいました。あのときの大﨑さんはカリスマで、かっこよかったです。

 

── 新喜劇の改革時期に座員になったんですね。島田さんへの新喜劇の観客やまわりの反応は?

 

島田さん:2丁目劇場のときと変わらない芸風でそのまま舞台に出たら、やっぱり古株の方に怒られました。新喜劇では、女の子はそんなハチャメチャやらんもんやって。

 

でも、舞台出たらやってしまう、また怒られる、でもやってしまう(笑)。最初はお客さんも全然笑ってくれません。

 

東野さんと今田さんが座長になって、私の変な動きにいちいち上手につっこんでくれてお客さんが笑うようになって、だんだん古株さんも怒らなくなりました。そこから自信がついて、プラスの波にのれましたね。

 

── ご自身の芸風がいかされてよかったですね。最初の当たり役は何ですか?

 

島田さん:舞台上でだれかにつかまえられて、助走をつけて壁に激しくぶつけられる“壁ぶつけ”ですかね。これは新喜劇では三枚目やブサイクキャラが担当する伝統芸です。

 

演出家の先生が新しく入った女の子たちを舞台に並べて、一人ひとり顔を見ていくんですよ、じっくり三往復くらい。

 

で、私の顔見て「ブサイクはおまえや!壁ぶつけ、お前がやれー!」って(笑)。私はもう、「やったー!」って声上げたのを覚えています。こうして“壁ぶつけ”の権利をいただきました。

 

ルミネの舞台で石田靖さんと(1999年)

── 島田さんの“壁ぶつけ”は、ワイルドであと味がいいです。

 

島田さん:それまでの人たちは、壁にぶつけられるだけで終わっていたんですけど、女性が泣き寝入りみたいになるのは、なんか嫌だなと思っていました。

 

ウーマンリブの時代も来ていましたから、「しめしめ」と思って、ぶつけられた後に「優しいのねぇ~」など全然問題ない、とつけたすよう工夫しました。これが私の最初の当たり役です。

「笑っていいとも」に抜擢されるも自信喪失に…

── 吉本興業が東京進出した勢いにのり、島田さんも東京の番組に出て全国に知られるようになりましたね。

 

島田さん: 大阪しか知らない、勢いだけでやっていた22歳の子がいきなり『笑っていいとも』のレギュラーなんて、それは浮かれましたよ~。

 

でも、『笑っていいとも』に出演されている方って若くても味があるし、おしゃべりが上手なんです。いきなり、お前行ってこい、という感じで東京行ったんですけど、私、そういう才能も実力もないし、東京の人は「誰?」ってなるし、すごく空回りしていました。

 

当時はマネジャーさんなしで、ひとりで衣装と靴もって、朝4時半に起きて、スタジオアルタに8時半到着。本番を終えて、夕方の新喜劇の舞台に間に合うように大阪に戻りました。焦って余裕ないし、実力もない。いつも反省しながら帰りの新幹線に乗っていました。

 

── 東京の壁は厚かったのでしょうか?

 

島田さん:全然ダメやん、って。1年半くらいで『笑っていいとも』のレギュラーが終わりましたが、本当にへこみました。でも、プライド高いから、へこんでないふりをしたんです。

 

早くからチヤホヤされすぎて、才能ないのにプライドだけ高くなったのもよくなかったんでしょうね、そのときに気づきました。生意気ではなかったのですが、もう、自分にまったく自信をなくしました。

 

── 新喜劇中心に戻ってからいかがでしたか?

 

島田さん:自分に自信がない日々が続いていたとき、新喜劇の浅香あき恵姉さんから「芝居を覚えなさい」とアドバイスをもらいました。当時、私、芝居はまったくできていませんでした。

 

あき恵姉さんは、「わーって目立つ笑いをやっていても、若いお客さんはついてくるかもしれないけど、なんばグランド花月はおじいちゃんおばあちゃんも観てるから、メリハリつけたほうがウケるよ」って。

 

具体的には、ブサイク役のときにワーワー騒ぐよりも、徹底的にぶりっ子やかわいい子ぶるほうが、「気持ち悪いやろ!」ってまわりがつっこみやすいんです。だから、口とがらせて「珠代ねっ、珠代ねっ!」というふうに演じ方を変えました。

 

こういう工夫を積み重ねていくうちに、心が落ち着いてきて、なんか恋でもしてみようかなっていう気持ちになりました。

 

── 恋!

 

島田さん:高校生からこの世界に入って、あんまり恋したこともないし、吉本では男の気持ちでやっていくねん、て思ってたんですけど。26歳のときに吉本の社員の方と結婚しました。彼の東京転勤もあったので、新宿のルミネtheよしもと新喜劇にベースを移したんです。

 

でも、私が仕事を一番に考えてしまうところがあり、8年後に離婚。また大阪に戻り、なんばグランド花月の新喜劇でがんばることにしました。

 

PROFILE 島田珠代さん

大阪府出身。高校2年生の時、『4時ですよ〜だ』の素人参加コーナーに出演、17歳で吉本興業に所属。1990年代はじめより吉本新喜劇の代表的女優として注目を浴びる。2008年に長女を出産。2023年芸歴35周年を迎え、なんばグランド花月で初の座長公演を行った。

 

取材・文/岡本聡子 写真提供/島田珠代、吉本興業株式会社