夫の急逝で突然、社長になったのは、手羽先で有名な「世界の山ちゃん」の山本久美(56)さん。社員に頭を下げ、経営を学ぼうとした日々。たった1つだけ、言葉にした思いがありました(全3回中の2回)。

企業勤めの経験がなく「イチから教えてください」と社員に頭を下げ

── 山本さんは2016年8月、創業者である夫の重雄さんの跡を継ぎ、エスワイフード株式会社の代表取締役に就任されました。プレッシャーも大きかったのではないでしょうか?

 

山本さん:何をしたらいいかわからず、プレッシャーを感じる余裕もなかったんです。私はもともと小学校の教員で、一般企業での勤務経験はありません。夫が創業し、代表取締役会長を務めていた株式会社エスワイフードの経営にもノータッチでした。

 

それでも2016年に夫が急死したあと、後を継ごうと決めたのは「夫が残した会社を守りたい」という一心からでした。取引先の方も、従業員の方も、私が後継者になったことで、社風を変えることなく会社を残せると喜んでくれました。

 

ただ、いきなりトップとして就任したため、周囲が何も教えてくれなかったんです。ふつうは転職するとまわりの人が指導してくれると思います。でも、代表取締役となると、周囲もどんなフォローをしたらいいかわからなかったようです。

 

── その状態のままだと一歩も進めないと思います。どのように対応したのですか?

 

山本さん: これはまずいと思って、就任時、幹部の皆さんに自分のありのままの気持ちを伝えました。「私は本当に素人です。年齢を重ねた新入社員が入社したと思って、イチから教えてください」とお願いしました。

 

同時に、「会長がいなくなった現在、皆さんの力が本当に必要です。一緒に会社を成長させてほしいです」と伝えました。会長の意思を継いでいきたいというのが、私の一番の思いでした。

「立派な変人たれ」会長の思いを経営の軸にした

── 山本さんが新しい経営方針を立てるのではなく、先代の意思を継ぐことに専念したのですか?

 

山本さん:就任当初から「私の役目は創業者で会長でもあった、夫の山本重雄の意思を継ぐことだ」と考えていました。会長は、経営方針からお店でお出しするメニューまで、全部ひとりで決めていたんです。

 

もし私が会長と違うことを始めたら、たとえそれが正しいことであっても、社内で反発があるだろうと考えました。

 

とはいえ、会長は亡くなり、これまでのようなトップダウン方式の経営は難しいです。だから、会長の信念や言葉は「会社の軸」として残し、皆でいろんなことを決めて、それを私が承認するボトムアップ方式に変えようと思いました。

 

幻の手羽先5人前(1人前5本)

── 軸となった会長の信念はどんなものでしょうか?

 

山本さん:当社の企業理念にもなっている「立派な変人たれ」です。

 

── 「立派な変人」ですか…?

 

山本さん:「ユニークで面白い人」という意味もあるし、「変化する人」という意味もあります。やっぱり会社としてはずっと同じことをしていても発展しません。新しいことにも柔軟に挑戦できる人であれという思いが込められています。

 

会長の近くで働いていた人たちは、彼の言葉や信念を完全に理解し、身につけていました。でも、新しく入社した人には、その信念を伝えるのが難しいです。だから、会長がつねづね言っていた言葉を明文化しました。

 

代表取締役就任時に「わからないことだらけなので教えてください」と社員に伝えた

一般的に、新しいことに挑戦しようとすると、さまざまなことに手をつけて、ブレてしまいがちです。でも、会長が残した言葉を中心に据えれば、新しいことを行うか迷っても「これは必要ない」などと、明確な判断ができると思いました。

 

── たしかに、企業理念が明確であれば、どんな挑戦をしたらいいかはっきりしそうです。

 

山本さん:私も就任に当たって、いろんな本を読んで勉強しようとしたんです。でも、他の会社で成功した方法が当社にも当てはまるとは限らないと思って。

 

さいわいにも、当社の業績は悪くはありませんでした。会長が培った当社の個性を大切にすることが一番大事だなと。そうすれば、土台がしっかりしてさらに発展するだろうと考えました。

会長の訃報を知り「力になりたい」と転職してきた社員も

── トップダウン方式から急にボトムアップ方式になり、従業員の人たちにはとまどいが大きかったのではないでしょうか?

 

山本さん:最初はとまどいもあったようです。以前は新しいメニューを提案しても、会長がNGを出したらお店には出せませんでした。「会長の指示が絶対」という部分があったと思います。

 

いまは、従業員全員が「自分ががんばらないといけない」と一人ひとりが奮起しています。お店ごとに従業員が考案したメニューを提供したり、会長時代はNGだったキッチンカーも取り入れて営業したりしているんですよ。

 

オリジナルでちゃんこ鍋をお出ししている店もあるのですが、ちょっと太った店員がお相撲さんのかつらをかぶっていたり、ハロウィンのときは店員がゾンビ風の衣装を着たり、店舗ごとにさまざまな趣向を凝らしています。

 

「世界の山ちゃん」本店外観

── 来店したお客様も楽しいですね。

 

山本さん:「お客様に喜んでいただきたい」という会長の信念を従業員たちも受け継いで、どうしたらお客様に楽しんでいただけるか、満足していただけるかを考えています。おかげで、代表取締役就任から約3年経った、2019年8月期決算で過去最高益を達成しました。

 

その後、コロナ禍は苦しいこともありましたが、持ちこたえることができました。従業員のなかには、飲食店で働いた経験がなかったのに、会長を慕って入社した人もいるんです。

 

── それはすごいです。その従業員の方が入社した経緯を教えてください。

 

山本さん:もともとその人は、当社の手羽先が大好きだったといいます。でも、近くに店舗がなかったので定期的に通販で購入していました。でも、あるとき当社のミスで商品が送れていないことがあって…。

 

すると、会長自身が対応をして、「本当に申し訳ありませんでした。今度、私がそちらに行くときは、一緒に食事に行きましょう」とメールを出したらしくて。「会長自身が、直接連絡をくれるなんて!」と感動し、そのメールを宝物として大切にしているそうです。

 

会長が亡くなったのを知り、「自分ができることは商品を購入することではなく、お店で働くことだ」と考えたのが入社のきっかけだったとのことでした。 いまでは大活躍してくれています。

 

みんな、会社に愛情を持って働いてくれています。だから私も、その思いに応えるよう、皆を支えていきたいです。

 

PROFILE 山本久美さん

やまもと・くみ。株式会社エスワイフード代表取締役。中学時代、バスケットボールで全国優勝を果たす。愛知県教育大学卒業後、小学校教諭を務めるかたわら、小学生男子ミニバスケットボールクラブチームの監督としても活躍、指導者としてもチームを全国大会優勝に導く。2000年「世界の山ちゃん」創業者の山本重雄氏と結婚し、専業主婦に。2016年8月、重雄氏の急逝によって代表取締役に就任。

 

取材・文/齋田多恵 写真提供/株式会社エスワイフード