親の死に直面すると、悲しみや後悔の念もわいてくるでしょう。わずか8か月の間に、立て続けに両親を見送った木佐彩子さんは、「でもね」と前を向く言葉を紡いでくれました。(全4回中の4回)

 

「父の背中を思い出します」旅立った父と木佐彩子さんの仲睦まじいツーショット

闘病2か月で逝った母「最期に届いたLINEのメッセージ」

── 木佐さんが、相次いでご両親を見送ったというSNS投稿が反響を呼びました。お母さまは突然のことだったと…。

 

木佐さん:父の体力が落ち、母が父の世話をするような感じだったのです。その元気だった母が病気を患い突然の余命宣告を受けて。闘病2か月で亡くなりました。もう青天の霹靂です。でも最後、母の意外な一面を見せてもらいました。

 

母は私と正反対の性格で、私の生放送なんて「ドキドキして寿命が縮むから」と、いつも録画で見るくらい慎重なタイプだったんです。

 

父を先に見送るつもりで「ひとりになったらどうしよう」と言ってましたが、まさか自分が先だなんて本人も想定外でした。でも、自分の病気をすっと受け入れる凛とした姿を見せてくれたんです。

 

最後まで自分の病気よりも、父のことが心残りだと言っていました。そこで、私の家の近くの老人ホームに夫婦で移り、父が日中数時間わが家に来て過ごす、という生活ができるのを見て、とても安心していました。

 

夫の石井さんが木佐さんのお父様を支えて歩く後ろ姿

── 心配ごとが解消され、お母さまが安心できてよかったですね。

 

木佐さん:自分がいなくなったら、父のことで私たち子どもにも負担をかけてしまうんじゃないかという懸念が消え、いろんなことが片づいてホッとしたと思います。

 

母の体調が悪化し、病院に移ったのですが、私と兄が病院から帰った後に、兄妹のLINEに「(ホッとした)本当にありがとう」というメッセージが母から届きました。

 

そこから3週間程度で亡くなったのですが、父のことをすべてやりきって旅立った姿に、母の生き様を見ました。

 

残された私たちは、「もうこんな悲しい思いはイヤ」と思いましたが、兄も私も元気に前へ進めています。3年くらい経つとじわじわ悲しみがくると聞きますし、両親のことを思わない日はないのですが、自分がいつか旅立つときは、参考にしたいかっこよさが母にはありました。

 

── 2か月という闘病期間ですが、心に残ることは?

 

木佐さん:笑い話なんですけど、よく伝えられるうちに伝えましょうっていうから「ママ、本当にありがとう」「ママの子どもで本当に幸せ、ここまでこられたのはママのおかげ」「愛情をありがとう」みたいなことを何回も伝えたんです。

 

そうしたら、「もうわかったから。そういうのはね、1回でいいのよ」って、漫才みたいなやりとりになりました。絶望のなかでも、こうやって笑える話もいっぱいあるって伝えたいです。

祖母の死に際を知った息子は「悲しみ」を学びました

── みなさん、同じようにとまどったり苦しんだりしているんですね。残されたお父様のご様子は?

 

木佐さん:父はだんだん弱っていき、すごく悲しみました。そして、母が亡くなった8か月後に父も亡くなりました。でも先に亡くなった母が生前、なんて言ったと思います?「ごめんね、パパをよろしく。でもすぐパパを迎えに来るから」って。

 

そうしたら、本当に迎えに来たから、「かっこいい!有言実行」だって。父にとってもたぶんそのほうが幸せだったんじゃないかな。

 

父はだんだん食べ物を飲み込みづらくなりました。でも、うちに来て、私が見つけてきた石川芋という小さくて食べやすいお芋に塩をつけて食べると、これ以上ないくらいの笑顔になりました。飲みこみづらくなると、食べ物に全部とろみがついて飽きてきますよね。

 

うちに来るたびに「彩子、いもはあるか?」って聞くから、これも食べられなくなったらかわいそうだなと思っていました。案の定、食べられなくなったころ、誤嚥性肺炎ですぐ旅立ったので、やっぱり母が迎えに来たんでしょうね。

 

── 8か月の間にご両親を見送ることに…。

 

木佐さん:息子は、初孫なのでおばあちゃんにすごくかわいがられていました。預けていたこともあり、おばあちゃん子でしたから、彼にとっても人生で一番苦しくて悲しいことだったと思います。

 

息子さんと愛犬・ベロが寄り添って寝ているホッコリとした姿

コロナ禍なので「お別れは短く」と病院から言われていましたが、息子は泣いてしまってしゃべれなかったんです。それで病院にもう一回会わせてほしいと頼んで、翌日、もう一回行って、自分なりにお別れしました。

 

その際「(おばあちゃんからは)一生、生きていける魔法の言葉をもらった」と言っていたので、息子にとっては悲しいけれど、乗り越えていかなければならないことだったんでしょう。

 

勉強で学ぶこともたくさんありますが、生きていくなかで経験して乗り越えたことは、血となり肉となります。いまはスマホひとつでなんでもできますが、生活の中で「生」を経験すると、心が動き、血がかよいます。そうやって人は強くなるのかなと、ふりかえって思います。

両親の介護や死にどう寄り添うか?私の場合は…

── 愛する人の死をのりこえ、前に進む。インスタグラムにご両親との別れを投稿されましたが、読者の反応をどう思われましたか?

 

木佐さん:迷いながらも親との別れをインスタグラムにつづると、「闘病中の親とどう接したらいいのかわからない」という思いを抱く方々から、たくさん反響をいただきました。みんないろいろ背負っていて、私には仲間がいっぱいいるんだなって。

 

悲しみ方は人それぞれでいいと思うんです。悲しんでも笑っていても同じ一日ですし、私は天国で母が喜ぶほうがいいなと。逆に、私がムリしても、母は喜ばないかも。

 

余命宣告されたときも、母は「迷惑かけちゃうかもしれないけど、あなたはカズ君(夫)と息子を第一にね」と言ってくれたので、できる範囲で看病しました。

 

── ご両親の介護や看取ったことで、木佐さんが考えたことは?

 

木佐さん:死について語ることをタブー視しないでいいんじゃないかなと思います。絶対いつか必ず誰にも訪れることだから、絶望としてとらえるよりは、いつか来る日のためにそれまでの人生を楽しもうという発想でしょうか。死の概念を変えられたらいいなと思います。

 

アメリカでは、死ぬまでにやりたいことをリストアップする“バケツリスト”というのがあるんですが、友人はそのリストを作って親と一緒にアフリカを旅していました。「お母さんとバケツリスト3つクリアしてくるわ」みたいなノリで。

 

元気なうちに、「これをやっておきたい」「チャレンジしたい」ことでいいんです。その友人のお母さんも4~5年後に亡くなり、友人は悲しんでいましたが、バケツリストをクリアしながら、お母さんといろんなときを過ごしたんだろうなぁと思います。

 

── 親が亡くなった後、「もっとああしてあげればよかった」など後悔することもありますが、バケツリストがあれば心強いですね。

 

木佐さん:後悔なんて親は求めてないし、私が旅立つ側になっても、まわりにそんなこと感じてほしくないです。だったらタイミングを見つけて、お金がかかるものでなくても、興味があることを親と一緒にやってみる。そういうほほえましい思い出が、親を見送った後、悲しみに負けず前に進む力になるのではないでしょうか?

 

── 木佐さんは、バケツリストは試したことがありますか?

 

木佐さん:バケツリストは作ってないですが、夫のドジャースへの移籍後、私が幼少期に6年間住んでいたロサンゼルスに両親が来て一緒に過ごした時期がそうかもしれません。

 

両親にとってもロスは思い出の場所。私はワンオペ子育てに近く、両親も退職していたので、年に3か月くらい来て、懐かしいものを一緒に食べたり、孫も含めて親と一緒に思い出のロスを経験できたのはよかったです。

 

最後はコロナ禍で、自由に外出できず両親とひんぱんに会えないなか、夫が母のために、Netflixを遠隔でつないだのもよかったかも。亡くなる前の2年間、母はNetflixの韓流ドラマにすごくハマっていたんですよ(笑)。

 

あれがなかったら、耳の遠い父とふたりきりで数年間過ごすのは厳しかったでしょう。バケツリストまではいかないかもしれませんが、こういう小さいことでいいんです。ふだんから親と連絡をとるのも含めて。

 

── 小さなことからでいいのですね。私も今日、両親に電話するところから始めたいです。

 

木佐さん:そうそう、そんな感じです!その延長で旅立ちというイメージで、その日に向けてできることを考えれば、自分が今悩んでいることもたいしたことでなくなるかもしれません。

 

私自身、元気なうちにやっておきたいこと、チャレンジしたいことのひとつが見えてきました。監督の妻という肩書をおろしたので、死にまつわる意識を変えるっていうテーマで、何かやってみたいと考えています。

 

PROFILE 木佐彩子さん

1971年、東京都出身。アメリカ・LAにて小学校2年~中学校2年までを過ごす。1994年、フジTVに入社、「プロ野球ニュース」「FNNスーパーニュース」「めざましテレビ」等多数の番組を担当。2000年、当時ヤクルトスワローズ所属の石井一久氏と結婚。男子出産を機にフリーになり、2002~2006年、夫のメジャーリーグ移籍に伴い渡米。2006年に帰国しフリーアナウンサーとして復帰。

 

取材・文/岡本聡子 写真提供/木佐彩子、株式会社AEGIS