新人のころから多くの生放送を担当し、失敗もたくさんしたと話す元フジテレビアナウンサーの木佐彩子さん。大変な環境を乗り越えられた原点が、幼少期に過ごしたアメリカでの生活でした。(全4回中の1回)

 

「カワイイしか勝たん!」笑顔が眩しすぎる小学校のときの木佐彩子さん

新人でお昼の番組2本、夜はスポーツニュース

── フジテレビ時代、木佐さんをテレビで見ない日がないほどご多忙だったと記憶しています。お茶目な一面を見せて場の雰囲気を和ませながら、キャスターとして信頼できる仕事ぶりが人気でした。

 

木佐さん:当時は昼の番組を2本に夜はスポーツ番組と、まったく違う分野を掛け持ちしていて、いまでは考えられないくらい働いていました。

 

私は新人のころから生放送の仕事が多かったんです。最後は生放送の力、現場の力を実感し、その極限状態にやりがいを感じられるようになったのですが、ミスひとつで番組が飛ぶこともあり、ドキドキしながらやっていました。

 

そのころは本当にサバイバルで実戦の毎日。忙しかったので、失敗して恥をかいても、目の前の番組に100%以上の力で臨んで、終わってから次のことを考えていました。

 

── 新人で生放送とは大変なプレッシャーですね。当時は、どんな気持ちでしたか?

 

木佐さん:それが、なんとかなるものなんですよね。これは幼少期のサバイバル経験からそう思えるようになったんです。小学3年生のときに、父の仕事でアメリカの小学校に転入したのですが、当時、ABCDも知らないまま学校に放りこまれました。

 

体育の時間に、わからないまま男の子たちについていったら彼らは体育をサボるグループで、私までサボることになって(笑)。でも、一緒に遊ぼうと声をかけてくれる友だちもいましたし、「なんとかなる」経験から生き抜く力や良くも悪しくも図太さが身につき、アナウンサーになっても役立ちました。

 

── 異文化の中に放りこまれた経験で得た力が、大人になってから助けてくれたんですね。アメリカ生活で影響を受けたことは他にありますか?

 

木佐さん:やはり、幼いころのアメリカでの生活は、自分の人間形成の原点です。当時は意識していなかったのですが、教室に肌の色が違う人たちがいて、私のようなアジア人のほか、中東などいろんな国籍の人たちがいました。

 

宗教も考え方も違うのに、小学生のクラスとしては成立していて、みんな仲良くしていたんです。それぞれバックグラウンドが違うのが当たり前の環境は、いまでいう多様性を私に教えてくれました。

 

── 言葉も違う、多様なクラスメートに囲まれたアメリカ生活。先ほど「サバイバル」とおっしゃいましたが、なじむまでがとくに大変だったのでしょうか?

 

木佐さん: 最初の半年間くらいは、毎週水曜日は早退していました。月曜と火曜は学校に行けるんですが、水曜の午前中に学校で必ずお腹が痛くなって…。覚えたばかりの英語で先生に言うと、「OK、またかー」みたいな感じで早退。

 

でも、子どもながらに学校には絶対行かなきゃっていう意識があるので、木曜と金曜はがんばって行くんです。しばらくして、みんなが話している単語をマネして使ってみたりしながら、気づいたら少しずつ話せるようになっていました。それからはアメリカが大好きになりましたね。

アメリカで見た「アンカーウーマン」に憧れて

── 英語を徐々に覚えてなじんでいったんですね。その後は?

 

木佐さん:アメリカの子たちに混じって同じように遊んでいるんですけど、やはり自分はアジア人だという意識がずっとありました。

 

当時、帰宅すると夕方のニュースにアジア人のアンカーウーマン(ラジオ・テレビのニュース番組のメインキャスター)が出ていて、その人がすごくキラキラ輝いて見えて。日本でいう安藤優子さんみたいな感じだと思います。コニー・チャンというアンカーウーマンなんですが、私がアナウンサーをめざす原点になりました。

 

私の大好きなアメリカで、同じアジア人がかっこいい仕事をしてバリバリ働いているのを見て、小学校高学年の私はすごく嬉しかったんです。

 

中学3年生で日本に帰国して、高校・大学は日本だったのですが、就職を考えたときに「輝ける仕事がしたい、アナウンサーを受けてみよう」と思いました。

 

── アメリカでの経験が職業選択にも大きな影響を及ぼしているんですね。アメリカで8年間過ごし、日本に帰国して違和感を覚えたことはありませんか?

 

木佐さん:私のなかではアメリカモードと日本モードが切り替わったので、それほど違和感はありませんでしたが、みんなと同じことをしていたほうが無難だな、とは感じました。

 

衝撃的だったのは、高校受験のための塾通いです。もう本当にビックリ。なぜ日本では、ふたつも学校(中学校と塾)に行かなければならないのか。朝8時〜15時の学校が終わって、また17時ごろから夜22時まで塾ですよ!

 

アメリカの親友に「この国はクレイジーだ!ふたつも学校に行くんだよ、信じられる?助けてー!」って、手紙でグチりました。

 

── 中学生の木佐さんの驚く様子が目に浮かびます。その後、青山学院高等部、大学へと進まれました。どうやってアナウンサーの道に?

 

木佐さん: 大学在学中に3か月ほど、アルバイトのような形で「CNNヘッドライン」という英語でニュースを伝える番組に出ていました。それからフジテレビに入りました。

 

じつは、就職希望先はアナウンサーかアメリカ大使館職員の二択でした。父の日本帰国時、アメリカの中学校のスクールカウンセラーと相談して、その人の家にホームステイしながら自分だけ残りたい、と親に交渉したくらいアメリカが好きで。

 

「私はアメリカにいたい!」と熱望していたのに、首根っこをつかまれて日本に連れて帰られました。だから、両国のかけ橋になれる仕事をしたいと思っていたんです。でも、その年は大使館の採用自体がありませんでした。

 

── アメリカ大使館に就職していたら、まったく違う人生を歩んでいたでしょうね。

 

木佐さん: でも、そうなればそれなりに楽しんでいたと思います。絶対になりたいというより、自分の性格に合っていると思えたので、この二択でした。

ニュースの読み間違いも「同じミスは繰り返さない」

── フジテレビに入り、多忙な日々を過ごしましたが、大変だったことは?

 

木佐さん:アメリカで7年間過ごしたので、日本語のプロとしてのアナウンサー業では苦労することもありました。失敗しながら、実戦で学ぶ繰り返しです。

 

業界的に指導が厳しいイメージがあるかもしれませんが、私の日本語がそんなに上手くないと先輩方もご存じなので「木佐、がんばれ!」みたいな雰囲気でした。

 

フジテレビ時代の初々しい木佐さん

ニュースで読み間違えたところがあると、名前のボードの横に先輩方が「時間ができたら後で来てください」と黄色いメモを貼ってくれて、行くと「あれはこうだよ」「ここを直して」と改善点を指摘してくれました。

 

── まさに実戦で学んだのですね。

 

木佐さん:本当に忙しくて反省するひまもないくらいでしたが、自分の中でひとつだけ「同じミスは絶対にしない」とルールを決めました。

 

本来は1回目のミスもダメなんですけど、わたしはあまり才能のない子なので1回目はしかたない、大目に見ようという雰囲気に助けられました。でも、注意されたり、やらかしたりしたときに同じことを繰り返さないことだけは、徹底しました。

 

PROFILE 木佐彩子さん

1971年、東京都出身。アメリカ・LAにて小学校2年~中学校2年までを過ごす。1994年、フジテレビに入社、「プロ野球ニュース」「FNNスーパーニュース」「めざましテレビ」等多数の番組を担当。2000年、当時ヤクルトスワローズ所属の石井一久氏と結婚。男子出産を機にフリーになり、2002~2006年、夫のメジャーリーグ移籍に伴い渡米。2006年に帰国しフリーアナウンサーとして復帰。

 

取材・文/岡本聡子 写真提供/木佐彩子、株式会社AEGIS