元テレビ東京アナウンサーで、現在フリーアナウンサーとして活躍中の赤平大さん。長男の発達障害をきっかけに、発達障害・ギフテッド支援の動画メディア「インクルボックス(incluvox)」の運営も手がけています。そんな赤平さんは、大活躍していたアナウンサー時代を振り返り、「当時仕事に対してモチベーションを見出すことが難しかった」と意外な言葉を口にしました。(全3回中の1回)

キャリアゴールが見えず「30歳までに会社を辞めます」

── 2001年、新卒でテレビ東京に入社をされています。その当時の様子をお聞かせいただけますか。

 

赤平さん:僕は、もともとアパレル志望でした。しかし、大学で友人に誘われて、マスコミの就職に強い講座の「アナウンサーコース」に軽い気持ちで入ってしまって。当時、アナウンサーの職種はどこよりも就活のスタートが早く、僕は大学3年生の夏から就活を始めて、そこで縁あってテレビ東京に受かったんです。

 

その際、アパレル業界に未練がなかったわけではありませんが、今さら就活するのも気が引けて「もういいかな」と。学生時代の僕は、それぐらい将来を深く考えてはいませんでした。

 

そんな気持ちでテレ東のアナウンサーになってしまったので、キャリアのゴールが見えなかった。そのため、アナウンス部に配属された最初の研修で、上司に向かって「僕は30歳までに会社を辞めます」と馬鹿正直に宣言してしまったんです。上司はただただ苦笑いを浮かべていましたが、今思うと新人社員としてはありえない発言ですね(笑)。

 

ただ、せっかくアナウンサーとしてお仕事をさせていただくからには、20代のうちに「報道番組のメインキャスターになる」「アフリカへ取材に行く」「オリンピックの取材をする」と、この3つの目標を決めました。そして、30歳でそれらが達成できれば自分自身が納得できる、そう思ったんです。

 

テレビ東京時代、念願の北京五輪(2008年)取材を経験
テレビ東京時代、念願の北京五輪(2008年)取材を経験

── 最初はどのようなお仕事を?

 

赤平さん:競馬の実況アナウンサーからスタートしました。実況アナウンサーは、一般的にあまり知られていないのですが、すぐにスキルが身につくわけではなく、長い修行期間が必要になります。しかし、競馬の実況スキルがあれば、アナウンサーとしては活躍の場が広がると。そのため、新人社員の男性アナウンサーには、まず競馬の実況を担当させようと上司は決めていたそうです。とはいえ、僕はそもそもギャンブルが苦手で、競馬の実況は自分に向いていないと思っていました。入社1年目から報道局への異動願いを出していましたが、その願いは叶わず。

 

しかし、僕は仕事に手を抜くことができない性格で、苦手なことも一生懸命に仕事をしているとパフォーマンスが徐々に上がってくるわけです。「実況アナ」として修業をしてきた成果が評価されるようになり、年に1〜2回、競馬に加えてボクシングの実況を担当する機会もできました。さらに入社4年目からは報道のリポーターの仕事も並行してやらせていただくように。

 

そして、入社5年目で突然、報道のメインキャスターに任命されたんです。「夕方の月曜〜金曜の帯番組のメインキャスターを赤平がやれ」と。まさに晴天の霹靂でした。

ナレーションでフリーランスに。その後、訪れた変化

── それはすごいですね。なぜ、メインキャスターとしての声がかかったのでしょう?

 

赤平さん:別の社員の代わりの玉突き人事なのか、僕がたまたま暇そうに見えたのか、理由はわかりません。競馬実況がメインであった僕が、なぜそうした人事に繫がったのか。ひとつ言えることは、入社1年目のときから手がけていたナレーションの仕事が影響していたと思います。

 

たとえば、当時テレ東のバラエティ番組『ありえへん∞世界』のナレーションの仕事をしていたのですが、ナレーションは映像に合わせて声で番組を進行していくため、テレビの出演はないんですね。そのため、アナウンサーからすると旨みがなく、モチベーションが低くなりがちなんです。でも僕は、もともと「何がなんでもテレビに出たい」という想いではなかった。他のアナウンサーたちが敬遠していたナレーションの仕事を、僕が拾って食べてみたら、それがすごく美味しいことに気づいたんです。つまり、声だけの表現力で多くの人たちに情報を届けるナレーションの仕事に魅力を感じた。

 

僕が楽しんで仕事をしていると、現場のスタッフからの評価も高まっていき、どんどんナレーションの仕事が増えていきました。そうすると現場では「赤平っていうナレーションが上手い、若手がいるぞ」という話が広まり、いろんな現場の人たちともどんどん仲良くなっていって。そうしてナレーションを通じた営業ルートが開拓できた結果、報道番組とも接点を持つようになっていったんです。赤平という人間を知ってもらえたおかげで、実績のなかった僕でも報道のメインキャスターというチャンスに繫がっていったのだと思います。

 

そして、入社1年目で掲げた3つの目標もすべて達成できたので、30歳のときにテレビ東京を辞めて、2009年にナレーションの事務所に所属をしてフリーランスとして活動を始めました。

 

フリー転身後、ラジオ番組で武尊さんと
フリー転身後、ラジオ番組で武尊さんと

── ナレーションの道を見出されたわけですね。

 

赤平さん:ええ。そして、せっかくフリーランスになったからには、キー局すべてのテレビ局、かつゴールデン番組に出演するという目標を掲げていたところ、幸運にもフリーになって3年目ですべての目標を達成することができました。

 

しかし、そこで次の壁にぶつかってしまった。30代半ばとなり、ふと人生に迷いが生じてしまったんです。

飛び込んだ大学院、MBA取得を目指して

── 次の目標が見えなくなってしまったと?

 

赤平さん:そうですね。振り返ると、アナウンサーは就活の時点で特に「やりたい」と思って始めた仕事ではなかったんです。ただ、目の前のことに懸命に取り組んで、それなりに評価をいただけるようになっていた。そのため、次にやりたいことが見つけられず、気づくと何に対してもモチベーションが持てなくなっていました。

 

そこでいくつか次の道を考えました。例えば、20代後半からアフリカのベナン共和国の支援活動をしていたので、そうしたアフリカの支援事業に関わる仕事をしたいと。しかし、30代半ばになると、管理職やマネージャー経験の実績が求められてしまう。つまり、アナウンサーとしての専門職が転職では活かしにくいと感じました。

 

20代後半から支援しているベナン共和国の元駐在大使でタレントのゾマホン・ルフィンさん(左)と
20代後半から支援しているベナン共和国の元駐在大使でタレントのゾマホン・ルフィンさん(左)と

同時に、手に職をつけられる仕事はないかと司法試験の受験も考えました。しかし、弁護士として生計を立てるまでに10年はかかるかもしれない。そう考えると、子どもがいるため現実的ではないと思いました。

 

では、起業はどうか?とふと思い浮かんで。以前、起業にはMBAの取得が役立つと聞いたことがあったので、ネットで検索したところ、早稲田大学ビジネススクールが出てきたんです。「日本でもMBAを取得できるんだ」と知り、さらに調べると、願書の締め切りが3日後であることがわかりました。これも縁だと思いすぐに申し込みの手続きをして、2週間後の試験に向けて準備をしたんです。必死に勉強したおかげで合格することができました。

 

── なるほど、そしてMBAを取得されて、起業に向けて進められたんですね。

 

赤平さん:いえ、実はそうではないんですよ。2年間かけて大学院で勉強しましたが、そこで起業の種を掴むことができなかった。結局、大学時代と同じなんです。思いつきで行動して、縁があればやってみる。ただそこに何か戦略的なアプローチがあるかと言えば、そうではない。

 

そんな折、大学院2年目の2016年、息子に発達障害があることが判明しました。それがその後の私の人生を大きく変えることになり、MBAを卒業して4年経った2021年に、発達障害・ギフテッド支援の動画メディア「インクルボックス(incluvox)」のサービスを立ち上げることに。人生って本当に不思議ですよね。後になって今までの経験が繋がったというか、答え合わせがやってきた感じですね。

 

PROFILE 赤平 大さん

フリーアナウンサー、ナレーター(元テレビ東京)。自分の子の発達障害がきっかけで「gifted・発達障害支援者向け 動画メディアincluvox(インクルボックス)」のサービスを立ち上げ、発達障害の啓蒙・啓発を行っている。ギフテッド・発達障害講演、横浜創英中学高等学校講師、麹町中学校講師。

画像提供/赤平 大