10クール連続でドラマに出演する人気俳優の小林涼子さんですが、ビルの屋上で循環型農園を運営する会社「AGRIKO」社長でもあります。彼女が農業を志したきっかけとは。(全4回中の1回)
10代で期待されるも20代で伸び悩み
── 4歳から子役として活動していますが、10代のころはどんなキャリアを描いていたのですか?
小林さん:昔はモデル、バレリーナ、女優の3つをやりたくてどれも選べない、欲ばりなキャリアを描いていたころもあったんです。
ただ、中学を卒業する頃にクラシックバレエを諦めようと思って、その先の自分の方向性に迷っていました。同じタイミングで『一番大切な人は誰ですか?』(日本テレビ)というドラマの撮影があったんです。そこで共演者の方に相談したところ「高校は行ったほうがいいよ。仕事を続けられる方法もあるよ」とアドバイスいただいて、進学する選択をしました。
モデルもやりたかったんですが、思ったより身長が伸びなくて、高校時代は、俳優としてのキャリアが積み重なっていきました。
── 高校時代はドラマ『砂時計』(TBS)で主人公の少女時代を演じるなど大活躍でした。どんな日々だったのでしょうか。
小林さん:高校時代は、芸能活動ができる高校に通いながら、俳優活動中心の生活を過ごしました。『砂時計』も長期的に撮影していましたし、『子ぎつねヘレン』という映画で1〜2か月近く北海道ロケに行ったりするような生活でした。普通の高校生らしい思い出はあまりないかもしれません。
── ご自身のエッセイの中で「20代は暗黒時代だった」と書かれています。当時はどんな思いで過ごしていたのですか?
小林さん:10代で思っていたような20代になれなくて、自分のあり方についてギャップに悩んだ時期でした。気持ち的には本当にどん底でしたね。
それも「今日最悪だ」みたいな一時的などん底ではなく、常に将来に対する漠然とした不安があったんです。どう頑張ったら自分が望む未来に向かっていけるのかがわからない。ぼやっとした不安に包まれた日々でした。
── 当時はどういう未来を望んでいたのでしょう。
小林さん:俳優として第一線で活躍できるんじゃないか、という過信があったような気もしますし、そうあってほしいという気持ちもありました。でも、なかなか思ったようにはいかなかったです。
両親の紹介で農業と出会い「こんなに豊かだったんだ」
── そんななか、2014年、24歳のときに農業に出合われたそうですね。
小林さん:そうですね。仕事で少し疲れてしまったときに家族が勧めてくれて、新潟に連れていってもらったのがきっかけです。もともと農業にすごく興味があったというよりは、最初はなんとなく連れていってもらった、という感じだったんです。
── 芸能の世界と農業の世界は、イメージ的には結びつきにくいと感じるのですが、初めから受け入れられたのでしょうか?
小林さん:最初から「農業を仕事にしよう」と思っていたわけではなく、リフレッシュのための家族旅行先の新潟で、農業体験させてもらった、ぐらいだったんです。父の友人の田んぼに行って「稲刈りでも体験してみない?」という感じで、ゆるっと始めさせてもらいました。俳優業とはまったく違うことばかりなので、最初は何をしたらいいのかはわからないけれど、みんなと一緒にワイワイできて楽しいな、という印象でした。
── 農業に関わっていくなかでだんだんご自身が変わっていったのでしょうか?
小林さん:そうですね。来年で新潟で農業に携わるようになって10年目になるのですが、現地の方々も「仕事があって忙しいのはいいことだから無理しないでね」と、オープンマインドで迎え入れて応援してくださっています。
人がやさしくて居心地がよくて楽しくて、お米はおいしくて、空気が澄んでいて…。そういう気持ちよさが積み重なってきたときに、ライフスタイルの一環として農業を身近に感じ「好きだな」と思うようになったんです。
── 新潟にはどのくらいの頻度で通っているのですか?
小林さん:農繁期に1週間~10日ぐらいを目指して行っています。仕事が忙しくなってしまうとなかなか思うように行けないときもあるのですが、田植えと稲刈りの時期で年2回、あとは冬の鮭のシーズンですね。一度鮭のやな漁(イクラをとる漁)に連れていっていただいて以来、鮭を見たくて冬もお邪魔しています。
── 具体的に農業のどんなところに「心地よさ」を感じたのでしょうか。
小林さん:20代のころは「都会は豊かだな」と思っていたんです。いろんなお店もあるし、食べ物だって選択肢が多い。実際、初めて新潟に行ったときは「何もないじゃん」って思ったんです。
でも、何もないけど、逆にいろんなものがあると気づいて。「山菜を採りに行くから一緒においで」と誘っていただいても、最初は「全部草じゃん」って思ったのに、山菜が自然に生えているということにびっくりしました。みょうがもどんどん生えてくるから食べ放題だし、イチジクも木に実っていて「いくらでも食べていいぞ」って言っていただけて、枝から取って食べたり。「草しかない」って思ってたはずの場所が、こんなに豊かな場所だったんだ、という気づきが、喜びに変わっていきました。
そんななか、2021年に家族が体調不良になってしまい、一時新潟に通えなくなってしまったんです。そこで初めて「こんなに気持ちよさを与えてくれた農業は、みんなの支えによって成り立っていたんだ。自分は甘えていたんだ」と気づきました。漠然と「このまま未来が続いていくんじゃないか」と思っていたんですが、そこで初めて「農業ができなくなったらどうなるんだろう」という不安感や危機感が生まれたんです。
そこで、「私も何かみんなのためにできることはないかな」と考えるようになったのが、起業しようと思ったきっかけですね。
起業は「思いきった決断ではなかった」
── そこから実際に会社を設立するまでに、どういった流れがあったのでしょうか。
小林さん:家族が体調不良になってから起業しようと思うまで、1〜2か月ぐらいでした。最初から今のような形を目標にしていたわけではなく、稲作を続けることがどれだけ大変かは、新潟で見て学んでいたので「1人じゃ無理だから仲間をつくろう」という気持ちがありました。農業は、誰かが病気やケガをしたとしても、他の誰かが続けていけるような、持続可能な形にしないといけない。そう思ったときに、会社という形をとろうと思いました。
── 思いきったご決断だと思うのですが、特に悩まなかったのでしょうか。
小林さん:会社をつくることは目標ではなく手段ですし、やりたいことのために必要なのが会社だっただけなので、私としてはそれほど思いきった決断だったという意識はないんです。ただ、やると決めた以上、どうやってやるかは真剣に悩みましたね。組織形態や運営方法は真剣に考えました。
── 4歳から俳優の道を歩まれていたなかで、起業に向けてどう勉強されたんでしょう?
小林さん:今の世の中ってものすごく便利なんですよね。「やってみたいな」と思ったらインターネットで「起業 やり方」と検索したら、あっという間に教えてもらえる(笑)。ただ、一つひとつすべて自分で準備するのは大変なので、登記のお手伝いをしてくれる方々を探して、プロの手を借りながら、できるところは自分で書類を揃えたりしました。
── 実際にどんなことが大変でしたか?
小林さん:俳優業では書類を読むということがほとんどないので、最初は「甲」とか「乙」とかとか言われても「さっぱりわからん」と思っていました。「定款ってなに?」とか「訂正印ってなに?シャチハタとどう違うの?」とか。いちいち大変でした。でも本当にしんどかったことは、意外とないですね。
── 起業準備中はそのことを周囲には話さなかったそうですね。
小林さん:そうですね。起業したのは2021年で、農園を開園したのは2022年。約1年間は準備をしました。勉強をしたり、農地を探したり、農園の設備の試作をしていたので、特にお知らせできることもなかったんです。
事務所の社長とマネージャーさんには「起業しました」「こんな会社です」と伝えたら、「おう、頑張って」と言われました。
PROFILE 小林涼子さん
俳優、株式会社AGRIKO代表取締役。1989年生まれ、東京都出身。10クール連続でドラマに出演し話題を集める。直近の主な出演作品は、映画「わたしの幸せな結婚」、テレビドラマ「王様に捧ぐ薬指」や「ハヤブサ消防団」など。俳優業のかたわら、 2014年より農業に携わる。家族の体調不良をきっかけに株式会社AGRIKOを起業。
取材・文/市岡ひかり 写真提供/AGRIKO、小林涼子