男子マラソン前日本記録保持者・大迫傑選手の移籍に伴い、ご家族で渡米した妻のあゆみさん。ワンオペ育児中には流産も経験し「人生で一番きつかった」と言います。東京五輪に向けたトレーニングで、大迫選手がケニアへ渡るまでに起きた出来事とは。(全4回中の2回)

夫がティースプーン1杯分の白米しか食べない

── 食事面での苦労はありましたか?

 

大迫さん:当時は夫が離乳食用のティースプーン1杯分の白米しか食べてくれませんでした。トラック選手だったので、太っちゃうという恐怖心があったんだと思います。強くなりたいという気持ちや、体は軽ければ軽いほど速くなるという考えから、あるメーカーのアイスにはタンパク質も脂質も糖質も入っているから、これさえ食べておけば大丈夫だと思い込んでいるようなときもありました。

 

でもやっぱり長い目で見たら栄養が偏っていて強くなるはずがないし、だからと言っていきなり食べさせるのも難しいので、スーパーやファーマーズマーケットへ一緒に行って、見たことのない食材をおもしろがって買って一緒に料理してみたり、そのときにそれぞれの野菜が持つ栄養素をプレッシャーにならない程度にぽろっと言ってみたり、トイレに座ってちょうど見えるところに「炭水化物は敵じゃない!」という表を貼ってみたりと(笑)、試行錯誤していました。

 

── 食べられるようになるまで、どれくらいの時間がかかりましたか?

 

大迫さん:1年か2年ぐらいかかったのかなあ。お米を1合炊いても余っちゃって、どうしたらいいんだろうって考えてたときに、ちょうど里田まいさんがアスリートフードマイスターの資格を取ったと知って。あ、これだ!と思って、私も同じ資格を取得したんですよね。何もわかってない人が作って「食べて」と言っても、そりゃ食べないよなと思って。知識があればちょっとは言うことを聞いてくれるんじゃないかと考えて勉強しました。

 

それに、トラック選手からいざマラソン選手に切り替えると、それだけの食事量ではとてもじゃないけどたりないなと本人も気づいたみたいで、少しずつ食べるようになりました。お米を炊いて、最初はティースプーン1杯だけだったのが徐々にお茶碗半盛、次は1杯分、その次は「おかわり」と言って茶碗を出してくれて2杯目をよそったときは、すごくうれしかったです。

 

── 特に手応えを感じたメニューを教えてください。

 

大迫さん:もんじゃ焼きですね。夫の実家に住んでたときに、南蛮漬けとかもんじゃ焼きとか、大好物のレシピをお母さんから習っていて。子どものころに食べてたものって、ティースプーン1杯の時期でもやっぱり食べるんですよね。もんじゃ焼きの小麦粉も炭水化物なので、夫に気づかれないように小麦粉の濃度を濃くしたり、キャベツ、小エビ、シーフード、めんたいこ、チーズ、豚肉など、とにかくありとあらゆる栄養素がたりるように混ぜ込んだりしていましたね。もんじゃだったらホットプレートで3~4回転ぐらいしても食べてくれたので助かりました。

 

米・グランドキャニオンでの大迫傑選手とあゆみさん

── たくさんの出来事の中でも特につらかったことはありますか?

 

大迫さん:上の子と下の子の間の時期に、流産をしたことですね。あれが人生で一番つらかったです。8週ごろの初期流産で、子どもが亡くなっちゃったことが女性として一番つらくて。夫も落ち込んでたし、珍しく病室にまで来てくれて、練習の合間を縫って付き添ってくれました。

 

前日の夕方に入院して、翌日に全身麻酔で処置をして2泊しました。半年以上お酒がないと眠れなくなり、ストレスで帯状疱疹も出て。人生で一番きつかったですね。自分ではストレスがたまっているとは思わなかったんですけど、体は素直で、病院で「これはストレスですね」と言われました。友達に打ち明けたら「実は私もそうだよ」と言ってくれたりもして、みんな言わないだけでいろいろ悲しい経験をしてるんだなと学びました。

 

つらくてお酒に逃げたこともあったし半年間は本当にひどかったんですけど、みんながちょっとずつ背中を押してくれて。原因を探ってても子どもが戻ってくるわけではないので、なるべく外に出るようになりました。夫と夫の両親、親友ぐらいにしか話せてなかったんですが、人と会ってしゃべって勇気もらうことで少しずつ状態が戻っていきましたね。

「明日からケニアに行く」前日に夫が宣言

── 東京五輪に向け、大迫選手はトレーニングのため単身でケニアに渡ることになりました。そのときの様子について聞かせてください。

 

大迫さん:前日に「明日からケニアに行く」と言われました。長く過ごしていると、止めてもこの男は行くんだろうなってわかるじゃないですか(笑)。もちろん、「ケニアなんて聞いてないよー」とコントのように茶化したりはしましたけど、誰にも言わずに決めるって大変なことだと思うし、いろんなリスクも含めて悩みに悩んだ上で出した答えだろうから、止めませんでした。

 

それに、私たちが渡米するときに「行かないほうがいい」と周りに言われたのと同じで、一番近い人が「やめたほうがいいよ」と言うのはよくないと思ったので、競技に関しては口を出さないと決めていたところもあって、気が済むまでやってもらえればと思いました。そのときは下の子も産まれていて3人でオレゴンに残りましたが、もう何も怖いものはなかったです。ひと通りトラブルも経験したあとだったのでなんとかなると思ったし、父親が限界を決めずにがんばっている姿を子どもたちに見せたいなという気持ちのほうが強かったです。

 

── ケニアから連絡をもらうこともありましたか?

 

大迫さん:ケニアでは、トレーニング中の道にキリンやライオンがいることもあったみたいで、それを子どもたちに見せたくてテレビ電話をかけてきてくれたりしましたね。普通だったら見られない景色を見られるので、子どもたちも喜んでました。

 

ケニアでは夫が自炊していたのですが、パスタとかしか作れなくて。それだと麺ばっかりになっちゃうので、魚の焼き方やオーブンの使い方、それこそ炊飯器の使い方も教えたりしました。テレビ電話を通して出来上がった料理を見て、「乳製品がちょっとたりないんじゃない?」とか、「この栄養素をもうちょっと摂ったほうがいいよ」と伝えたりもしました。子どもたちとはくだらない日常の報告のし合いも含めて毎日連絡を取っていて、長ければ1時間ぐらい話してましたね。

 

東京五輪メインスタジアム・国立競技場でポーズを決める長女と次女

── 東京五輪の直前に大迫選手が現役引退を表明されたとき、そのあと現役復帰を決断されたときは、どのように声をかけたのですか?

 

大迫さん:特には何にも言いませんでした。もちろんやめると言ったときはさみしい気持ちがありましたけどそれも受け入れたし、そのあと復帰するとなったときは、なんとなく本人よりも先に私のほうが「この人また走りそうだな」と気づいちゃったという感じでした。とにかく背中から哀愁がにじみ出てたんですよね。

 

引退したあと、彼がテレビでシカゴマラソンの中継を見てたんですよ。その背中がめちゃくちゃさみしそうで、きっと走りたいと思ってるんだろうなと思っていたら、案の定でした。あの背中は応援してくださっている皆さんにお見せしたかった(笑)。本当に悲しそうな背中だったんですよ。走ることを手放したくなかったんだなと思いました。

 

PROFILE 大迫あゆみさん

1989年生まれ。2012年、男子マラソン前日本記録保持者・大迫傑選手と結婚した。現在はTBSテレビ「ひるおび」で隔週レギュラー出演をしながら、11歳の長女と5歳の次女を育てている。アスリートフードマイスターの資格を取得しており、2020年からは「ランニング食学検定」アンバサダーも務めるなど、幅広く活動している。

 

取材・文/長田莉沙 画像提供/大迫あゆみ