箱根駅伝で区間賞を獲得し、東京五輪では6位入賞を果たした男子マラソン前日本記録保持者・大迫傑選手。そんなトップアスリートを支える妻のあゆみさんに、ご夫婦のなれそめや結婚当時の悲喜こもごもについて伺いました。(全4回中の1回)

公にできなかった結婚、新婚生活は義実家で

── 大迫選手とのなれそめを教えてください。

 

大迫さん:就職活動をしてアシックスに内定をもらったときに、内定者の同期がたまたま夫の先輩と付き合っていて。「恋人がいないならメールしてみれば?」と言われたことがきっかけです。夫が大学1年生で私が大学4年生のときだったんですが、当時は足の速い人とは知らなかったし、傑という漢字が読めないぐらいのところから始まりました(笑)。

 

私は卒業後に神戸で働き始めて、夫は所沢にある早稲田大学の寮にいたので遠距離恋愛でした。そのあと学生結婚と妊娠をしたのですが、周りに迷惑がかかるので卒業するまでは公にはできなくて。夫は変わらず学生寮で過ごして、私は夫の実家に2年間ぐらい住ませてもらいました。

 

結婚当時の大迫傑選手とあゆみさん

── 義実家での生活はいかがでしたか?

 

大迫さん:初めは不安しかなかったです。でも何が起こるか想像ができなかった分、やるしかないと飛び込めました。夫の父母から「傑が結果を出すことが家族が幸せになれる唯一の方法だから、今は陸上に集中させてあげてほしい」と言われて、私もそうだなと思って。普通は家を借りて一緒に暮らすのかもしれませんが、まだ二人とも若かったし、たぶん夫も父母と同じで、残り2年間の大学生活でどれだけ強い選手になれるかということを考えてたと思います。

 

ただ、当時は結婚を親や監督など限られた人にしか言ってなかったので、友達にも伝えてなくて。話す相手がいないことは、すごく苦しかったです。夫と同居していれば話せるんでしょうけど、義理の両親がよくしてくれるからと言ってもお互いに気は使うので(笑)。でも気にかけて、よく外に連れ出してくれていました。

 

夫は卒業後、日清食品に在籍することになったので、子どもが2歳前のときに家族3人での生活が始まりました。お金がなかったので、所沢で家賃3万円のアパートに住んでいましたね。

家族でアメリカへ「足を引っ張るな」と批判も

── その後、大迫選手の移籍に伴い、ご家族でアメリカのオレゴン州へ転居することになりました。当時の心境と周囲の反応を聞かせてください。

 

大迫さん:アメリカに行くことに対しては、冒険に出るみたいな気持ちでワクワクした希望しかなかったですね。英語はしゃべれないけど、言葉の壁よりも家族で挑戦できる楽しみのほうが強かったです。でも近ければ近い人ほど心配するので、当時は大きな実業団をやめてまで海外に行く選手なんていなくて、ありとあらゆる人に止められました。

 

夫本人もそうだし、私にも「足を引っ張るな」、「行くべきじゃない」と、知っている人からも知らない人からもSNSにめちゃくちゃメッセージが来ました。時には、面と向かって「家族は足手まといになる」とか「傑のキャリアの邪魔になる。一番大事なときに邪魔しないでくれ」とか言われたりもして。私もとがっていたので、「邪魔になるとは思えません」と言い返したこともありました。

 

大迫傑をなめるなよと思ったし、私は自分に何ができるかを随分と考えて決めたことだったので、周りの言葉で自分たち家族の人生を決断するのはちょっと違うかなと考えていましたね。それに、夫が強気で「がんばる」と言ってるのに、奥さんがひよっていたらダメだよなとも思っていました。

 

── 渡米後に感じた日米の違いを教えてください。

 

大迫さん:チームメイトの皆さんは、練習はもちろんやるんだけどもファミリータイムを大事にしていて、オン・オフをうまく切り替えているということを感じました。日本だと家族といちゃいちゃしている時間は悪だという選手への理想像みたいなものがあると思うんですけど、アメリカではまったく逆で。いかにファミリーを大事にして、いかにその時間を充実させるか、そのために陸上をがんばっているんだという考え方が衝撃でした。

 

一度、リオ五輪1万メートルの金メダリスト、モハメド・ファラー選手のご家族から夕飯に誘っていただいたことがあって。ご夫婦でイギリスのファッション雑誌の表紙をされていたので、「すごいね。日本で私がこれをやったら叩かれるかも」って話をしたんですよね。そしたら奥さんが「Why?わけがわからない。なんでそんなにワイフが日陰にいなきゃいけないのよ」という反応で。日本では奥さんが前に出るとでしゃばりな嫁だと言われると思うんですけど、アメリカではそれをすごいねと拍手してくれる風土なんだと感じましたし、選手の皆さんが堂々と家族の自慢をしてることも新鮮でした。

 

モハメド・ファラー選手と大迫さんファミリー

「よく泣いていた」アメリカでのワンオペ育児

── 異国での育児はいかがでしたか?

 

大迫さん:最初の1、2年間はすごかったです。とにかくもがいてもがいての状態でした。言葉がわからない、友達がいない、育児のシステムもわからないという環境で、ふさぎがちになってよく泣いてた記憶がありますね。結局、言葉がわからないことが全部につながっていくんですよね。子どもがこれだけ苦しんでるのに病院の予約すら取れない、日本とはシステムが違うからクレジットカードの支払いも止められてしまう、そうすると生活するカードが使えない、お金が払えない、保険にも入れない…。当時はレジで話しかけられても答えられず、スーパーに行くことさえもつらかったです。

 

── つらい気持ちを大迫選手に話すこともありましたか?

 

大迫さん:そのころ、やっぱり夫自身も新しい環境ですごくもがいてたんですよね。だから細かく話したりはしなかったですけど、私はリビングでわーっと泣きながらご飯を作ってたし、夫はチームメイトとうまくコミュニケーションが取れないままに練習していることに対するフラストレーションでわーっとなってたし。お互いが、ただただ目の前で荒れていました(笑)。でも二人それぞれが違うことですごくもがいてたので、相手がもがいているからこそ私はやーめたと言えないな、相手ががんばってるんだから私もがんばらなきゃなと発奮していました。

 

── どのように好転していったのでしょうか?

 

大迫さん:私は子どもとよく公園に行きました。そしたら何人か日本人がいらっしゃって、仲良くしてくれるようになって、旦那さんが忙しい駐在の奥さんたちが「うちもワンオペだよ」と声をかけたりアドバイスをくれたりしていました。そんな風にコミュニティを広げていく中で、長女が現地のプリスクールに通うようになったことをきっかけにアメリカ人のお父さん・お母さんと交流を持つようになって。そのころにはアメリカ生活も3年目になっていたので、覚悟が決まっていましたね。

 

もちろん、アメリカ行きを反対されて言い返した時点から覚悟はあったんですが、こんなに大変だとは思わなかったという部分で泣いていたんだと思います。でも、ここで泣き言をこぼしたら「ほら、言っただろ」と絶対に言われると思ったので、誰にも話しませんでした。

 

夫も夫で、だんだん選手の皆さんから認められるようになっていったんですよね。最初は練習についていけてなかったのが、泥臭くがんばっているうちについていけるようになって、なんならちょっと引っ張れるようになって、さらには心を開いてご飯に誘ってくれる選手も出てきたりして。ほかの選手が家族を大事にしてる様子を見て、練習はきついけれども、家族で過ごすときはニコニコと他愛もないことを話すのもいいリフレッシュなんだということを学んだんだと思います。

 

PROFILE 大迫あゆみさん

1989年生まれ。2012年、男子マラソン前日本記録保持者・大迫傑選手と結婚した。現在はTBSテレビ「ひるおび」で隔週レギュラー出演をしながら、11歳の長女と5歳の次女を育てている。アスリートフードマイスターの資格を取得しており、2020年からは「ランニング食学検定」アンバサダーも務めるなど、幅広く活動している。

 

取材・文/長田莉沙 画像提供/大迫あゆみ