「母は幼少期から自主性を尊重してくれた」と話す歌手の小柳ルミ子さん。離婚による世間からのバッシングで、自信を喪失していた彼女を救ったのも、気丈な母の振る舞いでした。(全4回中の3回)
母に夢を託され習い事は8つ
── 子どもの頃は、8つの習い事をされていたとか。お母様が、芸事の才能を伸ばすことに熱心でいらしたそうですね。
小柳さん:もともと母は歌が好きで、本当は歌手になりたかったらしいんです。でも昔は、音楽学校を卒業しないと歌手になれなかった時代だったらしく、泣く泣く諦めたのだと聞きました。ですから、子どもに夢を託したんでしょうね。
3歳の頃から、クラシックバレエや日本舞踊、ピアノ、歌、タップダンス、ジャズダンス、三味線、習字と、8つの習い事をしていました。68年前ですから、今のようにスマホで情報が得られるわけではなく、習い事の教室や先生を探すのもひと苦労だったと思います。お金も相当かかったでしょうしね。
── それだけの習い事をさせるとなると、親として付き添いも大変だったでしょうね。
小柳さん:それが実は、母は私を送り届けたら、すぐに帰っちゃうんです。お稽古の様子を見たり、あれこれと言うようなことはいっさいしませんでした。子どもの自主性を重んじる人だったから、無理にやらされたり、指示をされたこともありませんでしたね。
私は、歌やダンスは大好きだったのですが、ピアノがあまり好きじゃなかったんです。手が小さいからオクターブが届かず、嫌になって、「もうピアノはやめたい」と伝えたら、「そう。嫌ならやめれば?ただ、どうするかは、あなたが決めなさい」と言うんですね。そう言われたらら、負けん気の強い私の性格上、「やめるもんか!」となる。押しつけられると反発することをわかっていたのでしょうね。自分の意思でいったんやると決めたなら、もう誰のせいにもできませんから。
── 俗にいう「ステージママ」ではなかったと。
小柳さん:むしろ、逆ですね。宝塚や芸能界に進んでからも「こうしたら?」と口を挟んできたり、私について回ることはいっさいしませんでしたから。ただ、私の舞台は大好きで、常に一番のファンでいてくれました。
世間にバッシングされても信じ抜いてくれた
── 環境は与えるけれど、口は出さず、子どもの意志を尊重する。それだけわが子を信じ切ることは、なかなかできることではありませんよね。
小柳さん:母は、自分の子育てにも自信があったのでしょうね。私のことを本当に信じてくれました。それを痛感したのが、2000年に13歳年下のバッグダンサーだった元夫と離婚した時です。
当時、私が離婚を受け入れる代わりに、「慰謝料として1億円を支払うか、以前のような無名のバックダンサーに戻るかを迫り、夫が慰謝料1億円を支払った」という報道が出回りました。全くの憶測です。マスコミや世間からは、「鬼のような女」と言われて、ものすごいバッシングを受けたんです。福岡の母の元にも、連日ワイドショーや週刊誌が押し寄せ、それはもう大変でした。心配になって、「マスコミがきても対応しなくていいからね」と電話で伝えたら、「私の娘やけん、こんなことで負けるはずがなか!信じとうよ」と、逆に励まされて。
その言葉を聞いて、涙がボロボロあふれて、止まらなくなりました。
小柳さん:今だから言えますが、正直あの時は人間不信になり、どうすればラクに死ねるだろうかと、毎日のように考えていました。気力を失い、すっかり弱気になっていた私でしたが、振り絞るような母の言葉を聞いて、「こんなにまっすぐ信じてくれている母のために、死んでなんかいられない。前を向いて頑張らなきゃ」と、気持ちを奮い立たせることができたんです。
もしもあの時、母の涙を見てしまったら、きっと私は、自分を責めてもっと苦しくなっていたでしょう。本当は母もすごくつらかったはずです。親にとって、わが子がメディアであれほどバッシングされ、人格否定されるのは、屈辱以外の何ものでもない。どれほど地獄のような苦しみだったろう…今振り返っても、胸が苦しくなります。
母には真実を話していたので、報道されていることと事実が違うことも知っていました。ですから、本当はマスコミに「真実はそうじゃない」と言いたいところを、私の気持ちを汲んで、何も言わずにいてくれた。並の精神力じゃないですよね。それだけわが子のことを信じていたのだと思います。
最期まであっぱれだった母
── お母さまは2006年にお亡くなりになりました。当時のことを伺ってもいいですか?
小柳さん:母は86歳で亡くなりましたが、最期まで本当に気丈で素晴らしい人でした。あの日のことは今でも鮮明に覚えています。
静岡でクリスマスディナーショーの音合わせをしていた時に、お医者様から母が危篤だと電話をもらったんです。私は「受話器を母の耳に当ててもらえますか?」とお願いし、母の大好きだった『瀬戸の花嫁』を歌いました。歌い終えた瞬間、先生が、「今、すごく穏やかなお顔で旅立たれました」と言ってくださいました。
実は、亡くなる前日、母に会いに福岡に帰っていたんです。変な話ですが、その日に亡くなっていたら死に目にも会えたはず。それなのに、絶対に駆けつけられないディナーショー当日に亡くなるなんて、「なんで…!?」と、本当に悲しくて。
舞台の開幕直前までずっと泣きっぱなしだったので、化粧もできないほど目がパンパンに腫れてしまって。本音をいえば、すぐに駆けつけたかったし、舞台を中止にしたいという思いが頭をよぎりました。でも、ふと「これはきっと、母が私に最後の教訓を与えたのだな」と思ったんです。
── 教訓というのは…?
小柳さん:母はきっと、「プロというのは、どんなに悲しいことがあってもステージに立たなくてはいけないよ。笑顔で、お客様に喜んでいただけるように頑張りなさい」と、最後の最後まで教えてくれたのだろうなと。
結局、気持ちを奮い立たせて、2回のステージをやりきり、翌朝一番の飛行機で福岡に帰りました。「ルミ子、よくやったね」って褒めてくれているかなと思いながら。
── きっと誇らしい気持ちで見守っていらしたと思います。
小柳さん:15歳で親元を離れ、宝塚に入りましたから、母と一緒にいる時間は少なかったですが、一心同体だったのだなと思います。いまでも心の中に母の存在を感じていますね。
気丈な母でしたが、可愛い人でもありました。若い頃は、洋服を作る仕事をしていたので、歳をとってもずっとオシャレさんで、70歳すぎてからピアスを開けたんですよ。私が着ている洋服を気にいって、「それ、ちょうだい!」って可愛くおねだりすることも。ステージを見に来てくれた時は、「よかったよ~」とテンション高く踊りながら楽屋にくるんです(笑)。お茶目でしょ?
常に好奇心を持ち、何事にも貪欲でアグレッシブ。カラオケ教室やコーラス教室、大正琴も習い、いつもお友達に囲まれて楽しそうでした。母は、すごく上手に人生を楽しんだ人だなと思います。
── 好奇心旺盛で何事もポジティブに楽しむ。今のルミ子さんの姿に重なりますね。
小柳さん:人生の幕引きも「あっぱれ」でした。亡くなった翌日、病院に駆けつけたら、枕元に手書きのメモが残されていたんです。そこには力のない字で、「ルミ子のおかげで、幸せな人生でした。ありがとうね」と書かれていました。それを見た瞬間、体の力が抜け号泣しちゃいましたね。
その後、病院代金を精算しようとしたら、「すべて支払い済みです」と言われたんです。母は、自分の意識があるうちに、銀行からお金を引き出して、精算したらしいんですね。私には、なにも言いませんでした。おそらく迷惑をかけたくなかったのでしょう。
最後まで、本当に甘えない人でした。母は、私の誇りです。
PROFILE 小柳ルミ子さん
1952年、福岡県出身。1970年に宝塚音楽学校を首席で卒業後、NHK連続テレビ小説『虹』で女優デビュー。翌年、「わたしの城下町」で歌手デビュー。160万枚を超す大ヒットとなり、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。その他、「瀬戸の花嫁」「お久しぶりね」など数々のヒット曲を持つ。女優としても、数々の賞を受賞。サッカーファン歴は19年。年間2000試合を鑑賞。
取材・文/西尾英子 画像提供/小柳ルミ子