数多くの名作を生みだした漫画家・手塚治虫さんの長女であり、手塚作品をもとにしたイベントのプロデュースや企画を手がける手塚るみ子さん。就職活動の際は人知れず悪戦苦闘したそう。偉大な父をもつ子ならではの苦労について聞きました。(全5回中の2回)
「親の力を借りたくなかった」自力で就活に励むも…
── 子ども時代は自由奔放に育ったと伺いましたが、学生時代はどのような生活でしたか?
るみ子さん:学生時代は親のいうことをきかず、好き勝手やっていましたね。そのせいでよく母と衝突してました。特にボーイフレンドのことでは。彼氏と旅行に行くなんて言えなくて、「テニスサークルの合宿で」とごまかしたことも…(笑)。でも結局、全部バレバレでしたね。社会人になってからは、仕事帰りによく渋谷のディスコで飲んだりしていました。
── 就職活動では苦労されたそうですね。
るみ子さん:普通ならば大学3年くらいから、目指しているジャンルの勉強や就活を始めたりするのでしょうけれど、当時の私はまったく考えていなかったんです。ただ、高校生のときの文化祭実行委員を任された経験から「イベントをつくる現場は楽しいな」って漠然と考えていて。広告代理店やテレビ局の事業部などでイベントにかかわりたいと思っていました。でもぼんやりとしか目標が見えてなかったので、就職活動をしても当然、ボコボコ落ちていくわけです。
── 特にツラかったのはどんなことでしたか?
るみ子さん:その当時はまだまだ反抗期で(笑)、“手塚治虫”である父とは距離を置きたかったんです。マスコミ関係に行きたいけれど、父の仕事とかかわりのある企業を受けるのは嫌だったので、父には何も相談せずに就活を続けていました。
たいてい、1次面談ではプロフィールを見て「お父さん、手塚治虫さんなの」って興味を持ってもらえるんです。でも2次の筆記試験でだいたい落ちる(苦笑)。
「このままじゃ、もうどこも受からないんじゃないか」と切羽詰まったときに、ようやく父に相談しました。そうしたら、父は「どんなことをやりたいんだ」ってこと細かく聞いてきて。でも、父に話していくうちに、テレビ局などマスコミにこだわらなくても、世の中には制作プロダクションとか、いろんな業種があるんだと知って勉強になりました。最終的には自力で広告代理店に就職することができて、父も喜んでくれましたね。
仕事でのやりがい、実家からの独立、父のがん
── 入社された広告代理店ではどのようなお仕事を?
るみ子さん:高校の文化祭実行委員会で活動したときのような、「いろんな役割を担う人が集ってひとつのことを成功させる」という充実感を得る経験はたくさんできたと思います。私が広告代理店に入社した当初はかろうじてまだバブルのころで、大がかりなイベントも多かったんですよね。あちこちの現場に連れて行ってもらい、そこからノウハウを学ぶことができました。
百貨店の催事などのセールスプロモーションや、ブームだった博覧会のお手伝いもさせてもらって。あらゆるタイプの現場を体験したので、仕事は充実していました。そういった経験するなかで、“いつか自分もイベントを動かしてみたい”と考えるようになっていました。
── そのころも、ご実家暮らしだったのでしょうか?
るみ子さん:就職して2年目くらいに、当時のボーイフレンドと同棲するのをきっかけに実家は出ました。結婚するつもりで彼を両親に紹介したとき、父としては理解を示したい反面、「またるみ子が何かやらかすかも…」っていう心配もあったみたいで(笑)。母とはもとより折り合いが悪く、このときも反対されました。「だったら家出してやる」と私が癇癪を起こしてしまって。
私は幼いころから頑固な性格で、自分を曲げない部分がある。だから「自分で痛い目にあわないとわからないこともあるだろう」と考えた父は、彼と同棲することを承諾し、母を説得してくれたんだと思います。当時の自分は「父が味方になってくれてラッキー」って単純に思っていたけれど、まだまだ子どもでしたね。いうならば、社会勉強させてもらったと思っています。
── それからしばらくして、手塚先生のご病気がわかったのですよね。当時はどのような心情でしたか。
るみ子さん:父が亡くなる前年の3月に大きな手術をしたんです。そのときにはもうがんが転移していて、余命も母には知らされました。当時、病状を聞いたのは、母と兄と手塚プロの社長だけ。本人にも知らされず、また私と妹、親せきにはいっさい教えられてなかった。おそらく父に知られないために、という母の配慮だったと思うんですけど…。私はそこまで父が悪いとは思っていなかったうえに、ちょうど家を出るというわがままを通したばかり。退院できたのだし、あの父のことだからきっと治ると思っていました。
── それが、治らないような病状だったのですね。
るみ子さん:手術をして胃を切断したのにまた再入院したので、どうもおかしいな…と。年末になって、もう先が長くないと思った母が、私と妹にようやく話してくれました。なんとなく予想はしていましたが、実際に病の状態を知らされたときはさすがにショックでした。ただ父にはやっぱり内緒にしなくてはいけない。病気のことが外部に漏れると大騒ぎになるから、周囲の人にもいっさい話せませんでした。
── お仕事は続けていたのでしょうか。
るみ子さん:続けていました。でも、会社の人にも父の病気のことは話せなかったので、看病で休んだりすると、理由を知らない上司から「なんでこんなに休んでいるんだ」と責められたりして。そういった精神的なストレスはありました。
── その状況で普段どおりの生活を続けるのもお辛かったと思います。
るみ子さん:自分の親の死が近づいているという実感が、なかなか持てなかったです。ただ何とも言えない恐怖というか、何かが変わってしまうような怖さを感じていました。最後に入院してからは、結局一度も退院できなくて。父の意識がなくなってきた後は、本当にもう数えるほどの時間しかありませんでした。そこからが本当に辛かった。
最後まで本人に病状を告知しなかったのは、今思えばどうだったんだろうって考えたりもします。告知をしていたら、父なりに残された時間をどうするのか、気持ちの整理ができたかもしれない。そうさせてあげられなかったことは心残りでした。
PROFILE 手塚るみ子さん
プランニングプロデューサー、手塚プロダクション取締役、父は漫画家の手塚治虫、兄はヴィジュアリストの手塚眞。夫は漫画家の桐木憲一。大学卒業後、広告代理店に入社。企画・制作に携わった後、独立。手塚作品をもとにした企画やイベントのプロデュースを手がける。
取材・文/池守りぜね 写真提供/手塚るみ子