数多くの名作を生みだした漫画家・手塚治虫さんの長女、るみ子さん。手塚作品をもとにしたイベントのプロデュースや企画を幅広く手がけています。長く反抗期状態だったるみ子さんが、父の死をきっかけにプロデュース業を志しはじめた当時のお話を聞きました。(全5回中の3回)
父の死後、眠れず情緒不安定に…そして新たな葛藤も
── 手塚先生の死は、新聞やテレビなどのメディアでも大きく報道されました。ご家族は大変だったのではないでしょうか。
るみ子さん:そうですね…。亡くなった時点でも連載をたくさん抱えている状況だったので、情報が一気にマスコミに知れわたるだろうなというのはまず、頭に浮かびました。病院や自宅の周囲にファンや人が集まってしまったら、落ち着いてお別れすらできない。そういう緊張感もありました。
母や兄、社長は対応に追われて大変でした。私や妹はまだ悲しみに暮れることができたけれど、母たちは悲しんでいる暇すらなかったと思います。
── いつごろから、元の生活に戻りましたか?
るみ子さん:父の葬儀のあとにお別れ会があってようやくひと段落したという感じでした。そのころから仕事も生活も通常に戻ってはいたのですが、やはりショックを受けた状態。今にして思えばかなり情緒不安定だったと思います。
そのせいもあって、当時おつき合いしていた彼との同棲生活もうまくいかなくなってしまって。普通に仕事をして、笑ったりご飯を食べたりしていたつもりだったけれど、家に帰ってくると眠れない。情緒が不安定なせいで、ケンカも増えていきました。悲しみや喪失感に苛まれる状態を1年くらい引きずっていたと思います。
── 身内の死を経験すると、立ち直るまでに時間がかかると思います。どのように前向きな気持ちを取り戻したのでしょうか。
るみ子さん:父が亡くなったあと、さまざまなメディアでいろんな方のコメントや情報を目にして、自分が見てこなかった“手塚治虫”としての父が見えてきたんです。自分の父がどんな生き方をしていたのか、周りにどういった影響を与えていたのか…。
ずっと“手塚治虫の娘”ということに抵抗感を抱いていて、そこから距離を置いていました。でも、父を失ったことによる絶望感や悲しみ、喪失感を埋めたのが手塚治虫の情報でした。「父はこんな生き方をした人だったんだ」という輪郭が見えてきて。と同時に、漫画家・手塚治虫という存在として、なぜちゃんと見てこなかったんだろうっていう反省や後悔、何よりそんな偉大な父のもとで自分はわがままばかりで何もできていないという気持ちが生まれ、しばらくは自分を責め続けてました。
── 痛みを伴いながらも、父と娘という関係を越えて「漫画家・手塚治虫」と向き合っていたのですね。
るみ子さん:そんなときに、たまたま会社の人から「お父さんの作品を通じて、何かできることがあるんじゃない?」って声をかけられたりしたんです。正直、まだ手塚治虫に対する葛藤や迷いがあったのですが、父が心血注いで世に出してきた作品の数々をもっとたくさんの人に伝えなられないか、という思いが先立ちました。娘として父のためにできることは何か。悲しみや苦しみという立ちふさがった感情から抜け出すきっかけでしたね。
「私のアトム展」がひとつの転機に
── どのような経緯から、プロデュースの企画を手がけるように?
るみ子さん:社内でアニメのプロデュースをしていた方から、「手塚原作でテレビアニメを企画してみたら」と提案されたんです。それで、『マグマ大使』や『ハトよ天まで』などの作品をテレビアニメ化する企画を提案しました。それを機に、父の作品をあらためて読み返す、企画を作って提案する…という会社でのスタンスが日常化して。父の作品で自分なりの企画を形にしたいと思うようになりました。そして娘としてではなく、プランナーとして父の会社、手塚プロダクションにも頻繁に顔を出すようにもなりました。
── 会社員をしながら、イベントのプロデュースも始められたのですか。
るみ子さん:父が亡くなった後、近代美術館で手塚治虫展などは開催されましたが、『鉄腕アトム』の生誕40周年を迎えるにあたっては、まだ何も企画が用意されていませんでした。あるときにそのことを手塚プロから聞いて、それならば私が企画書を作ろう、と思い立ち、あらためて原作を読み直したのですが、自分の記憶の中の『鉄腕アトム』と全然違っていて、すごく驚いたんです。
── あらためて作品に触れて、手塚作品の魅力を再確認されたのですね。
るみ子さん:きっと自分のような人も多いだろうなと思いました。国民的なキャラクターだけど原作に込められたメッセージや、作品の魅力を知らない。ならばそこをより多くの人に伝えたいと強く思いました。
企画書を作って各所を回っていたら、父とも親交のあったアニメーション作家の古川タク氏が、“海外では、ミッキーマウスの誕生日にいろんなアーティストがミッキーマウスを描いて、それを1冊の画集にしているよ”って教えてくれて。それを見たときに、“これだ! “ってひらめいて、『私のアトム展~100人のMY FAVORITE ATOM』を企画。1993年に実現することができました。
── 初めて自身で企画から手がけたイベントだったわけですよね。無事に終えたときはどのような気持ちでしたか。
るみ子さん:ものすごく大きな経験になりました。それがきっかけで、長年勤めていた広告代理店からの独立を決めました。会社員として働く限り、私個人の“手塚治虫を知ってもらいたい”という思いだけで行動するのは限界があり、迷惑をかけることもありますので。
── お聞きしていると、何事も決断が早いと感じます。その判断力はどのようにして身についたと思いますか?
るみ子さん:そこは、親の育て方が良かったんだと思います。プライベートでは失敗ばかりしていますが(笑)そのぶん学ぶこともあったので。行動しないであれこれ悩むよりも、行動して失敗することで人生経験を積む。この姿勢は、好きなようにさせてくれた親の育て方だと思いますね。
── 手塚先生から何か声をかけられたことはありますか?
るみ子さん:直接言われたことはないのですが、父が生前に教育関係のインタビューを受けた記事を見たことがあって。80年代も今と同じように、自分が用意したレールの上に子どもをのせたがる母親がいて、当時は受験などを苦にした自殺が社会問題になっていました。
そういった背景があるなかで、父は「親は人生の先輩だから、こうしたら絶対失敗するとか、痛い目にあうって答えはわかっている。だけど、最初に親がその答えを導いてしまうと、子どもは自分で経験をしないままになってしまう。その結果、失敗したときに親や周りのせいにするだろう」という趣旨のことを語っていて。父の教育方針は本当にその通りでした。選択肢を子どもたちに決めさせてくれて、好きなものはなんでもやりなさいと言っていたと思います。
── 親が子どもを見守るのは、信頼関係がないと難しいように感じます。そこは手塚先生との関係性が良かったからではないでしょうか。
るみ子さん:私は“あれも、これもやりたい”って広く浅く興味をもち、好きになるタイプでした。スポーツや芸術の道で一生懸命になるのも正しいと思うのですが、私みたいに好きなものがあいまいなタイプは、いろんなものをかじりまくって経験を増やしていけばいい。最初に自分が面白いなって感じたところを伸ばしていけばよいし、それがうまくいくか、いかないかは本人次第で、そのときになってみないとわかりませんよね。
私の場合は失敗ばかりしていますけど、好きなものを“いいな”って思ったら突っ走るタイプに育って、それがたまたまうまくいったのかもしれません(笑)。
PROFILE 手塚るみ子さん
プランニングプロデューサー、手塚プロダクション取締役、父は漫画家の手塚治虫、兄はヴィジュアリストの手塚眞。夫は漫画家の桐木憲一。大学卒業後、広告代理店に入社。企画・制作に携わった後、独立。手塚作品をもとにした企画やイベントのプロデュースを手がける。
取材・文/池守りぜね 写真提供/手塚るみ子