『ブラック・ジャック』『火の鳥』『鉄腕アトム』など数多くの名作を生みだした漫画家・手塚治虫さん。その手塚作品をもとにしたイベントのプロデュースや企画を手がけるのが、長女の手塚るみ子さんです。天才と呼ばれた父との幼少期のエピソードに迫ります。(全5回中の1回)
男の子と遊ぶのが好きなおてんば娘
── どんな性格のお子さんだったのですか?
るみ子さん:『ブラックジャック』のピノコを想像していただくとピンとくるかもしれません。とにかくおてんばで、毎日近所の男の子たちと外で遊んでいるような子でした。学校帰りに男の子たちと探検ごっこをして、暗くなるまで家に帰らず、親を心配させていましたね。
── お父様の職業柄、漫画もよく読んでいましたか?
るみ子さん:はい、いつでも好きなだけ漫画が読める環境でしたから(笑)。そこから父の見よう見まねで絵を描くようになりました。父が描き損じた原稿をこっそり拾って、その続きを描いたりしていました。
小学生のころは、ノートに漫画を書いてミニコミ誌みたいなものを作って、同級生のみんなに読んでもらったり。高学年になると美術部に入部して、夢中になって絵を描いていました。文化祭などで自分の作品が展示されると、父にも観に来てもらって。子ども心に、父がどんな反応をするかと意識していた記憶があります。
── 小さなころから才能あふれる感じだったのですね。学校では優等生タイプだったのでしょうか?
るみ子さん:優等生ではなかったです。実は小学生のとき、親が学校に呼ばれたことがあったんです。大人が読む漫画をまねて男女が裸になっている絵を描いてしまって、それが先生に見つかって。父が漫画家ということは知られていたので、“ご家庭の環境には気をつけてください”って注意をされたと、後になって聞かされました。
── 漫画家のおうちにありそうなエピソードですね!
るみ子さん:子どもだったので、どういう理由で男女がそうなっているのかはわかっていなかったと思うのですが。そういう情報がインプットされる環境が考えものっていう心配はあったのかもしれません。
とはいえ、母はしつけに厳しかったですが、父は放任主義だったので、基本的には自由奔放に育てられたと思います。ものすごくたくさんのものをインプットできたので感性が豊かになったけれど、ちょっと豊かになりすぎた感もあります(笑)。
── 当時、ご両親はるみ子さんに対してどんなことをおっしゃっていたのでしょう?
るみ子さん:母からは「もっと勉強をしなさい」とか「お部屋を片づけなさい」とか…父が有名人なので世間の目を気にしていたところもあって、いろいろ口うるさく言われましたが、父は”自由にしなさい“という感じだったので、ある意味家庭内ではバランスが取れていたと思います。
父の漫画に登場する女の子たちは、男の子と同じように冒険活劇を楽しみながら、やりたいことを明確に見つけています。それもあって自由にさせてくれていたのかもしれません。
ほとんど家にいなかった父…夕食をともにするのは年に数回
── お父さんの職業を意識しはじめたのはいつごろでしたか?
るみ子さん:生まれた家には父の仕事場もあって、同じ敷地に虫プロもあったので、小学校に入学するころに、普通の会社員のお父さんのように、朝出かけて行って夕方に帰ってくるお勤めの家ではないんだな、って感じてました。小学校に入ると同級生やその親からもいろいろ言われるようになって、必然的に意識するようになりましたね。
父の仕事場が高田馬場のプロダクションに移ってからは、1週間に1回会うか会わないか。だから、一緒にご飯を食べている記憶があるのは、父の誕生日とクリスマス、元旦くらいです。当時は朝晩関係なくずっと漫画を描いていたので、とても家族の生活時間に合わせられなかったんだと思います。
── 寂しくなかったですか。
るみ子さん:よく聞かれるんですけれど、幼いころは家に父はいましたし、いろいろと人の多い家庭環境でしたし、学校が楽しかったので、特別寂しいと思ったことはなかったです。むしろ思春期のころは、家族で出かけるのも億劫に感じるようになっていた気もします。
── 幼少期には家の敷地内に虫プロダクションがあったのですよね。
るみ子さん:そうなんです。アシスタントや虫プロのスタッフなど、家族以外の大人がいる環境のなかで暮らしていました。可愛がってもらいましたし、一緒に遊んでもらうのも嬉しかった。あまりにもいろんな人が出入りする環境だったので、人見知りをしない子でした。
そういえば、当時は出入りしていたアシスタントや編集の方の分も母がご飯を作っていたんです。何日も寝泊りしていく人もいたので、その人たちのご飯を用意するだけでも大変だったと思います。お手伝いさんも雇っていたけれど、今になって思えば、母の苦労はかなりのものだったんじゃないかなって。
── 多忙を極めた手塚先生との思い出で、印象的なものはありますか?
るみ子さん:毎年11月3日の父の誕生日とクリスマスは家族で食事をするようにしていたんです。父にしてみれば、忙しいなかで唯一の家族サービスの時間だったんだと思います。このときだけは、父がちょっと人に自慢ができるような店に連れていってくれました。
思い出深いのは、帝国ホテルのビュッフェレストラン『インペリアルバイキング』(現在の『インペリアルバイキングサール』)。日本で初めてのバイキング形式のレストランだったんです。いつもはテーブルについてお行儀よく出されるものを食べるみたいな食事だったのが、バイキングだと好きなものを自由に取って食べられるので、子ども心にすごく楽しかったですね。
同じ漫画家の親を持つ子どもたちで結成された『二世会』
── 水木しげる先生や、赤塚不二夫先生のお子さんたちと『二世会』を主宰されています。どのようにしてこの会は始まったのですか?
るみ子さん:もともとは水木先生の娘さんやちば先生の息子さんが始めた飲み会でした。それが広がって、漫画家の二世が集うようになりました。私たち二世は、親の名前や作品が有名という特殊な環境にいるせいで、自分のアイデンティティーで悩んだり、考えさせられたりする経験をしています。そういった悩みを話し合える場として、『二世会』という横のつながりが自然とできました。
── 具体的にはどのような話をされているのですか?
るみ子さん:基本的に愚痴の言い合い、ですね(笑)。自分が目立ちたいわけではないのに、父のせいで変に目立ってしまって困ったという体験が私たちには数多あります。たとえば同級生から「サインをもらってきて」などと言われたり(笑)。
あとは自分たちの知らぬところで勝手に自分が漫画に登場することも。うちもそうでしたが、水木先生も赤塚先生も、作品内に登場する女の子がそれぞれの娘に似ているんですよ。私の場合は『ブラック・ジャック』のピノコです。そういう共通点が「二世会」では多いですね。
同じ境遇にないとわかりあえない部分なのですが、みんな自分の人生を変えられてしまうほどのすごい使命感を持たされている。見えない苦労もたくさんあって、「こんなことあったよね」ってそれぞれの経験を話したりできるのは心強い。最近はそこから一歩進んで今は、山ほどある原画や原稿や、著作権が70年で切れてしまうので、それをどうすれば次の世代まで残せるとか、そういう話もしています。
── 同じ境遇どうしの結びつきが、作品を残すという使命に繋がっていったのですね。
るみ子さん:そうですね。最初は「つらいよね」とか「面倒くさいよね」って愚痴を言い合っていたのが(笑)、どんどん次のステップに繋がっていったので、「二世会」をつくって良かったなぁと感じています。漫画家以外にも、小説家や映画監督、ミュージシャンの二世にも、同じような境遇の人がいて。お互いに情報共有したり悩みに共感することで、ひとりで孤独に悩むよりはいいんじゃないかなと思っています。
PROFILE 手塚るみ子さん
プランニングプロデューサー、手塚プロダクション取締役。父は漫画家の手塚治虫、兄はヴィジュアリストの手塚眞。夫は漫画家の桐木憲一。大学卒業後、広告代理店に入社。企画・制作に携わった後、独立。手塚作品をもとにした企画やイベントのプロデュースを手がける。
取材・文/池守りぜね 写真提供/手塚るみ子