パートナーの闘病。しかも相手は名俳優。こんな状況で、看病する側はどんな気持ちで何を守ろうとしてきたのか。根津甚八さんを看取った妻・仁香さんに聞きました。(全3回中の2回)

 

最愛の夫・根津甚八さんがこだわって日々作っていたお気に入りの毛針

夫の介護中に「自分が複雑骨折」したことも

── 昭和を代表する俳優だった根津甚八さんの妻として、長く闘病生活を支えてこられました。

 

根津さん:30歳で結婚後、ほどなくして彼がさまざまな病気を患い、69歳で亡くなるまで15年間、闘病生活が続きました。もちろん幸せな時間もたくさんありましたが、甘い結婚生活を楽しむ余裕などはなく、結局、2人で旅行に行く夢も叶いませんでした。

 

いまでもあのころの日々を振り返ると、胸がギュッと締めつけられるような気持ちになります。当時に戻れと言われても絶対にムリですね。30~40代と若かったからなんとか乗りきれたんだと思うんです。それほど、体もメンタルもキツかったですね。

 

── 病気は本人が一番つらく大変だとはいえ、支える側も心身が疲弊しますよね。

 

根津さん:まさにそうでしたね。夫の体調やメンタルの状態に気を配りながら、子どもの世話と心のケアもしないといけない。でも、私にとってはすべてが大事で、かけがえのないものだから、優先順位なんてつけられません。とにかく目の前のことをこなすので精一杯でした。

 

自宅リビングで根津甚八さんがお気に入りのソファに座って仁香さんが見守る温かな様子

彼は車椅子での生活も長く、日常生活でもいろいろとサポートが必要でした。車いすの人の介助は、傍で見ている以上に体力も神経も使うものだと知りました。

 

押すだけでも力がいるし、男性の体を車いすからソファーに移動させるのは、ひと苦労。倒れてくる夫を支えきれず、自分の左足を複雑骨折したこともあります。ですから、介護職の方は、本当に凄いなあと尊敬しますね。

 

彼が他人を家に入れることを好まなかったので、子育ても介護もワンオペ状態。頼れる人もなく、ママ友づき合いも極力さけていたので、孤独でしたね。

夫の闘病「誰にも何も言えずひきこもった日々」

──「ママ友づき合いも極力さけていた」というのは、なぜでしょう?

 

根津さん:私の何げないひと言やうかつなふるまいで、彼に迷惑をかけるわけにはいかないという気持ちが強かったんです。夫の闘病の様子をゴシップ週刊誌がつねに狙っていたので、神経質にならざるをえませんでした。

 

ですから、ママ友と仲よくしたい気持ちはあっても、不安が先立ち、集まりにも行くことを控えていました。とくに、子どもの通っていた小学校は6年間クラス替えがなかったので、ママ友づき合いのプレッシャーがすごく大きくて。

 

周りもみんな「根津甚八の息子」と認識しているし、マスコミの報道で病気や事件のことも知っているだろうから、何かあるとネタになってしまう。余計なおしゃべりから変な噂が立ち、子どもが学校で過ごしづらくなったり、夫に迷惑がかかったりするのは絶対に避けたかったんです。

 

週刊誌の人たちもプロなので、ものすごい望遠レンズでこちらがわからないうちに撮るんですよ。だからぜんぜん気づかなくて。よりによって、スーパーに行くときのすっぴん姿を狙わなくてもいいのに、とは思いましたね(笑)。

 

── ひと目をさけ、人づき合いも極力絶つような生活を続けていると、気持ちが追い込まれてしまいますね…。

 

根津さん:でも、私がやつれて暗い顔をしていたら「やっぱりあの家は大変なのね」と、噂されるし、子どもまでそういう目で見られてしまう。それは嫌だったので、外ではできるだけ笑顔で明るく振る舞うようにこころがけていました。

 

たとえ重く苦しいできごとでも、なるべく軽やかに言葉を発していくことで、周りから「大変そうだと思っていたけれど、別に不幸ではなさそう」と思われれば、余計な詮索をされづらくなる。それも経験を通じて学んだ処世術でした。

 

ですが、私自身がメンタル不調に陥り、不安神経症と診断されて、心療内科で薬を処方してもらっていた時期もありました。結婚してわりとすぐ夫が病気になったこともあって、「貧乏くじを引いた」とか、なかには、私と結婚したせいだとネガティブに報じるゴシップ誌もあって、そうしたことも心の重荷になりました。だから、余計にどこにも出たくなくて、夫婦で家に引きこもっていたんです。

偉人の名言に励まされて「つらい時期」を乗り越えられた

── 家のなかでは、どんなふうに過ごされていたのですか?

 

根津さん:マンションのリビングがガラス張りになっていて、中庭が見えるのですが、夫はいつもソファーに座り、そこから外の様子を見るのが好きでした。雨や雪が降る様子を眺めたり、四季の変化を感じたり。

 

春になると草木が芽吹いて太陽の光で葉っぱが輝く様子を、紅葉の季節にはライトアップされた紅葉を一緒に見たりしていましたね。そうした時間は、唯一、穏やかで幸せなひとときでした。

 

ただ、このまま2人で家にこもっていても気がめいってくるし、金銭的にも厳しい。そこで、美大出身でアパレルの仕事をしていた経験から、インテリアの仕事を少しずつ始めました。

 

その後、人とのご縁からテレビショッピングを紹介していただき、アクセサリーブランドを立ち上げることになったんです。それが経済的な自立につながり、後に私自身の生きがいにもなりました。

 

仁香さんがモノトーンをイメージして作った軽くて都会的なペンダント、イヤリングピアス、バングル

── つらい時期をどんなふうにして乗り越えたのでしょうか?

 

根津さん:つらいときに頼ったのは、人生訓や偉人の名言集の本でした。古本屋で本をたくさん買ってきて、それを読みながら、気になった言葉に線を引いて、ノートにすべて書きうつしていくんです。「ああ、そうだよね。私もこんなふうに考えよう」と自分に言い聞かせる。

 

1回だけでは身にならないので、時間があるときに何度もノートを読み返し、声に出して自分のなかにインプットしていきました。さらに、誰かに話してアウトプットすることで、初めて自分のものになっていくんですね。

 

── まるで、語学学習のようですね。

 

根津さん:語学の習得と同じだと思っています。インプットとアウトプットを何度も繰り返すことで、自分のなかに落とし込んでいくんです。そうやって、ポジティブな考え方を取り入れていくことで、メンタルを少しずつ回復させていきましたね。

 

PROFILE 根津仁香さん

ねづ・じんか。ファッションジュエリープロデューサー。武蔵野美術大学で空間演出デザインを学んだ後、海外アパレルブランドに就職。2010年、パーソナルセレクトブランド 「Jinka Nezu」を立ち上げ、アクセサリープロデューサーとして活動を開始。著者に『根津甚八』(講談社)。

 

取材・文/西尾英子 画像提供/シーオージャパン株式会社