女子テニスの世界ランキングでトップ10入りを前にして大不振に。みるみるうちにランキングは下がり、そのうちボールの打ち方さえ忘れてしまった杉山愛さん。スランプを脱した方法は母・芙沙子さんのある言葉でした。(全4回中の2回)

 

よき理解者である母とのツーショット

フィギュアもクラシックバレエも習ってみたけれど

── 子どものときは、いろいろな習い事をされていたそうですね。そのなかで、テニスにひかれた理由は?

 

杉山さん:好奇心旺盛な子だったので、フィギュアスケートを習ったり、コスチュームに魅せられてクラシックバレエに通ったり。どれも自分から「やりたい」と言って始めたものでしたが、なかでも一番楽しいと感じたのが、4歳で始めたテニスだったんです。

 

本格的なアカデミーに通いだしたのが、小学校2年生。ラケットのスイートスポットに当たったときの心地よい打球感、難しかったショットが打てるようになった感覚、ラリーが続く楽しさなど、テニスの魅力にどんどんハマり、週2回のレッスンが5回、6回と増えていきました。そのころには、「世界で活躍するテニスプレーヤーになる」と心に決めていましたね。

 

── 小学校2年生で「世界の舞台で活躍する」という夢を描くのは、すごいですね。

 

杉山さん:両親がテニス好きだったので、自宅にウィンブルドンのセンターコートのポスターが飾ってあったのですが、それがカッコよくて、「いつか自分もここに立てたらいいな」と憧れを抱くようになりました。中学3年生のころには、ジュニアの世界ランキング1位になり、海外でプロとして活躍するために、語学の勉強にも励みました。

 

ただ、初めからテニスの才能があったのかといわれると、そうでもなかったと思うんです。一貫して持ち続けてきたのは、テニスへの情熱。それこそ、「好きこそものの上手なれ」で、好きだからこそ、もっとうまくなりたいと上を目指して探求し続け、努力も苦にならない。子どものときにそういうものに出会えたことは、ラッキーだったと思います。

高校2年生でプロへ転向「学校も2回変わることに」

── ジュニア時代から国内外のツアーに出場されていましたが、学業との両立は大変だったのでは?

 

杉山さん:そこは友だちにずいぶん助けられましたね。ツアーで学校に行けないときには私専用のノートを作っておいてくれて、すごくありがたかったです。その友だちとは、いまでも仲良くさせてもらっています。中高一貫校だったので、そのまま進学することもできましたが、テニスに集中できる環境を求めて別の学校に転入しました。

 

ただ、2つの誤算がありました。ひとつは転入先の高校が思っていたよりも出席日数などに厳しく、両立が難航したこと。もうひとつは嬉しい誤算でしたが、テニスの実力が急激につき、高2で世界ランキング200位以内に到達したこと。プロとして戦えるレベルになっていたのです。いろいろ考えて、17歳のときにプロへの転向を決意しました。

 

── 17歳の現役高校生でのプロ転向に、迷いはなかったですか?

 

杉山さん:ありませんでした。国内ではそうしたケースはなかったものの、世界を見渡せば、フランスのメアリー・ピアースやブルガリアのマグダレナ・マレーバなど、同世代で活躍している選手もいたので、「いま、プロになっても早すぎることはないな。むしろ挑戦すべき」と前向きにとらえていました。

 

ですが、ここでもまた学業との両立の壁にぶつかりました。プロとして参戦する試合で学校を休むと「公欠」にならないので、出席日数が足りなくなってしまう。卒業したかったので、通信制の学校へ転入を検討することにしたんです。

 

通える距離で通信制を導入していたのは、当時、湘南高校のみでした。卒業実績は2〜3%と低く、さらに「今年は募集しない」と言われてしまって…。どうしてもあきらめられず、高校側に「絶対卒業するので入れてください!」と直談判し、入学できました。

 

── 2度の転入を選択し、高校に直談判するなど、その行動力と意志の強さには驚かされます。勉強時間は、どうやって捻出していたのですか? 

 

杉山さん:遠征の移動中や待ち時間など、スキマ時間を活用し、時間割を決めて管理していました。結局、1年のカリキュラムを2年間かけて卒業しました。

世界ランキング・トップ10を目前に訪れたスランプ

── 順調にキャリアの階段を駆け上がっていた杉山さんですが、25歳で大きなスランプを経験されたそうですね。どのような状況だったのでしょうか?

 

杉山さん:当時、コーチを変えて新たなスタートを切ったところでした。ところが、コーチの指導方針やビジョンが理解しきれず、徐々にズレが生じて、目指す方向性を見失ってしまったんです。

 

そこから3か月でどんどん調子が落ちて、ガタガタと音をたてて崩れていく感覚がありました。自分のよさが消え「どうやって打つんだっけ?」と、ボールの打ち方さえわからなくなり、ボールが飛んでくるのが怖くなってしまったんです。

 

いま思えば、違和感を覚えた時点で原因に向き合えばよかったのですが、見て見ぬふりをしているうちに、深みにはまってしまいました。

 

── それまでの自信が、崩れ去ってしまった。

 

杉山さん:そうでしたね。ただ、自信というのは確立されたものではなく、フィーリングだったり、思いこみの部分だったりと、もろくて揺らぎやすい面があります。だからこそ、負けが続くと簡単に失われてしまう。結果が出ず、さらに自信をなくす「負のスパイラル」に陥りました。

 

そして、25歳の夏、得意なハードコートのUSシリーズで負け続けたときに心が折れてしまって…。当時は世界ランキング10位以内まで、あともう一歩のところでしたが、そこから順位がどんどん下がり、メンタルもボロボロ。

 

怖くて逃げたい気持ちでいっぱいになり、支えてくれていた母に、「自分のテニスが見えない。このままやっていても意味がないから、辞めたい」と伝えました。

母親からのひと言でスランプを脱することができた

── お母さまはなんとおっしゃったのですか?

 

杉山さん:開口一難、「ここで辞めたら、今後何をやってもうまくいかないんじゃない?」と。そして、「本当に後悔はない?自分のやるべきことを、すべてやりきったの?」と言われたんです。

 

それを聞いて、目が覚めるような感覚がありました。まだ私は力を出しきれていないじゃないか。やりきって自分のキャリアをまっとうしたい。そんな気持ちが、心の底からわいてきて、スイッチが入った瞬間でした。

 

── 忘れていたものを呼び覚ましてくれる言葉だったのですね。

 

杉山さん:まさしくそうでしたね。でも、状況を打開できる方法はわからず、「どうすればいいのか、ママには見える?」と聞いたら、母がひと言、「見えるわよ」と。力強い言葉に勇気をもらい、母にコーチを依頼。ふたたび前を向いて歩きだすことができました。

 

── 当時のお母さまには、どういうビジョンが見えていたのでしょうか?

 

杉山さん:そのときは必死で余裕がなく、あえて意味を聞きませんでしたが、引退後、「あのとき、何が見えていたの?」と聞いたんです。そうしたら、「当時、あまりにも愛ちゃんらしさを欠いていたから、それを一緒に取り戻せばいいと思ったの」と答えてくれました。当時の私は、「心技体」のすべてがボロボロな状態。なかでも「心」の影響は大きく、精神的な部分で未熟だったんです。

 

── 未熟、というのは…?

 

杉山さん:それまでの私は、プロと名乗りながらも、フィーリング重視で若さの勢いやテニスが好きという情熱だけで突き進んでいたんです。ある程度までは通用したけれど、着実に積み重ねてきたものではなかったから、人生初のスランプで谷底まで落ちてしまった。必要だったのは、心の成長でした。

 

スランプをきっかけに、さまざまな気づきが生まれ、考え方もガラリと変わりました。テニスをより総合的に捉えるようになり、「心技体」のアプローチを見直して、ひとつずつ向き合うことで、新たな自分をつくりあげていきました。

 

── その後、世界ランキングでトップテン入りを果たされました。

 

杉山さん:スランプを乗り越えるのに、年単位の時間がかかりました。最初は先の見えない暗いトンネルを手探りで歩いているようでしたが、1年ほど経ったころに結果が伴いだすように。

 

3年後にはツアーで5年ぶりに優勝。2003年には念願だったトップ10にも入ることができました。自分と向き合いながら、地道に積み上げてきたものが、実を結んだことは自信にもつながりました。あのスランプがなければ、きっとトップ10に入れるレベルの選手にはなれなかったでしょうね。

 

──「ブレークスルー」のきっかけだったのですね。

 

杉山さん:よく「ピンチはチャンス」と言いますが、まさしくその通りだなと。スランプがあったからこそ、ゼロからの再出発を切ることができた。私にとって、あの経験は、人生の大きな財産です。

 

PROFILE 杉山 愛さん

1975年神奈川県生まれ。パーム・インターナショナル・スポーツ・クラブ代表、BJK杯日本代表監督。17歳でプロに転向、グランドスラムで4度のダブルス優勝を経験。最高世界ランクはシングルス8位、ダブルス1位。グランドスラムの連続出場62回の世界記録を樹立し、オリンピックには4度出場。34歳で現役引退後は、テニスの指導やメディアなど、多方面で活躍中。

 

取材・文/西尾英子 画像提供/杉山愛