「ぬいぬい屋SOU」のブランド名でミシンを使った手芸作品を制作・販売して活躍する中学2年生の佐々木奏さん。作品がコンクールで優秀賞を受賞するほどの実力の持ち主である奏さんですが、字が書けないという学習障害(限局性学習症)で悩み不登校に。ミシンという特技に自分の世界を見つけだした彼女をそばで支え続けるお母さんとご本人にお話を聞きました。

 

奏さん自作の服や小物を身につけてお散歩する奏さん(左)とお母様(右)
自作の服や小物を身につけてお散歩する奏さん(左)とお母様(右)

「頑張ってるんですが、できないんですよ」が伝わらない

── 奏さんにはどのような特性があるのでしょうか?

 

奏さんの母:娘には学習障害(限局性学習症)があり、書字障害といって字を書くことに困難を伴ったり、あとは発達性協調運動障害といって体幹が弱く、普通の人より体力がないところがあります。

 

学習障害に最初に気づいたのは小学校に入ってからでした。ひらがなやカタカナの宿題に2時間くらいかかったり、学校でも授業を受けるのが困難だったりと、行きたくないと泣き叫ぶ毎日で。「これは何かあるな?」と病院に連れて行き診てもらい、やはり学習障害があることが判明しました。

 

そのときはショックという心境ではなく、正直「よし、これで学校に合理的配慮をしてもらえる!」と、授業を受ける方法を相談できるとホッとしたところがありました。

 

── ホッとした背景にはどんなことがあったのでしょうか?

 

奏さんの母:当時小学校や担任が、学校には行きたいけど、ほかの子と同じようにできないと苦しんでいた娘に対して「もっと頑張れ!」と言うタイプの人たちで。

 

私が「頑張ってるんですが、できないんですよ」と相談しても、「みんなできるんですよ!おうちでの学習がたりないのでは?」と、言われる始末。解決するための打開策を相談したくても、平行線をたどることばかりでした。

 

診断が出たことによって、「娘ができないことについてある程度配慮していただけたら助かります」とやっと正式に申し出ることができる!そういう思いでした。

 

文字を書くのに困難を伴う書字障害がある
奏さんには文字を書くのに困難を伴う書字障害がある

── 合理的な配慮については、学校にはどんなお願いをされたのでしょうか?

 

奏さんの母:宿題のドリルのマスを減らしてほしいとか、板書はしなくてもいい(代わりに黒板をカメラで撮影するなどで授業を受けさせてほしい)などですね。ただ、学習障害がまだあまり認知されておらず、希望はあまり反映されなかったんです。当時は、コロナ前でリモートが一般的ではなかったこともあり、リモートはもちろん、教室にデジカメを持ち込んだり、娘が使えそうな勉強のアプリの利用を提案するもダメ。ことごとくダメで結局、学校に対応してもらえないので行けない。行ってもできることがない、という打つ手なしの状態でした。

 

娘は、手段が見つからず自分を責めて「みんなできているのに、自分はなぜできないんだ…」とどんどん自信を失っていきました。メンタル的にも辛くなっていき「もう学校に行けない」となってしまいましたね。

不登校にシフトするも、コロナ禍で見えた可能性

── お母さんも「行かなくていいよ」と奏さんに声をかけられたそうですが…。

 

奏さんの母:毎日、床にひっくり返って暴れて泣いて、本当にあまりにしんどそうでしたから「命をかけてまで行くとこじゃないよ、学校は」と言っていたんです。ですが、自分は頑張りたいからと一生懸命泣きながら学校に行っては帰ってくるという日々でした。それが小学校2年生の夏休み明けにプツッと何かが切れたようで学校に行くことに固執しなくなりました。こちらとしては、娘のツラさを見てきたので、やっと行きたくないと言ってくれたかと。安心したくらいでした。


 
── 不登校となり、おうちではどのように過ごされたのでしょうか?

 

奏さんの母:学校に行かなくなってしばらくは、好きなことを中心にさせて様子を見ていました。主に、趣味のミシンとゲームの二本柱で生活してましたね。並行して、フリースクールを探しました。県内のフリースクールをいくつかリサーチしていて娘が気に入ったところがあったので見学に行き、小学生時代はそこにお世話になりました。

 

年長の時、初めてミシンを触った奏さん
年長のとき、初めてミシンを触った奏さん

奏さん:そこは小学生がいなくて中学生や高校生、大人が多く、その人たちと会話が楽しかったです。山の中の学校で野球したり、料理したり、虫を捕まえたり。楽しく通えたので毎日通っていました。でも高学年に入ったくらいのある日、突然、虫が苦手になり、そこにも行けなくなっちゃったんです。

 

── ではまた、フリースクール探しが振り出しに戻ってしまったのでしょうか?

 

奏さんの母:それが、ちょうどその時期コロナ禍に突入しまして、「リモートで学校の授業を受ける」という選択肢が出てきたんです。6年生の頃でした。通っていた小学校もリモートを導入することになって「できるんじゃん!!」って(笑)。コロナ禍をきっかけにようやく学校の授業を受けられるようになって親子で喜びました。

 

中学に入って時代も少し変わり、学校も合理的配慮に対応してくれて、板書はタブレットで撮影してもよいと言われ、本当に通いやすい環境になりました。

 

奏さん:ほかにも、私は感覚過敏という症状のためウール素材の制服が苦手で、自分の肌に優しい素材で自分で制服を作りました。それを着て通うこともOKしてくれました。

 

奏さんの肌に合う優しい素材で作った自作の制服を着て(手にしている制服は市販のもの)
奏さんの肌に合う優しい素材で作った自作の制服を着て(手にしている制服は市販のもの)

奏さんの母:柔軟な学校と先生に助けられて、これならできるかもと行ったんですけど、今度は体力的に難しくてまたリモートに。

 

奏さん:登下校がまず体力的にきつくて、移動教室もなかなかみんなに追いつけなかったりして。あと、逆に中学校のみんなが優しすぎて、私の障害のせいで気を遣わせているのが心苦しくて…。今はリモートで授業を受けています。

得意を活かし自信につながったミシン

── 自分で制服を作るというのは、誰もができることではありません。そもそもミシンを始めようと思ったきっかけは何だったのでしょうか? 

 

奏さん:ミシンは年長さんのときに初めて触りました。小学校入学準備で母がいろいろ作ろうとしてくれたのですが、ミシンがまったくできず。母が雑巾作りに半日かかっているところを見かねて手伝おうかと言ったのがきっかけでした。最初のできはひどいものでしたが、自分で作ったものを見て、ほかのものも作ってみたいと思うようになりました。

 

奏さんの母:結局、雑巾以外にも入学時に必要な手提げや体操着袋など、すべて娘が自分で作ったんです。当時は娘の才能が開花したとかそういう感覚ではなく、私としては素直に「ラッキー!助かった!」という感じでした(笑)。幼かったけど、ミシンの説明書を自分で読んで使い方を理解してミシンの速度を落として使い始めた様子には驚きました。娘がミシンに興味を持った様子だったので「じゃあ他のもいけるのでは?」となり。「ワンピースを作ってみたい!」というので、ダブルガーゼを一緒に買いに行って作りはじめました。最初は3か月くらいかけて縫いあげました。当時は気に入ってよく着ていましたね。

 

ワンピース作りにハマった低学年の頃。右は小1の夏休みの宿題で作ったワンピース
ワンピース作りにハマった低学年の頃。右は小1の夏休みの宿題で作ったワンピース

──「危ないからダメ!」とかつい言ってしまいそうな年齢ですが、できることに対して向き合うお母さんの背中の押し方が素晴らしいですね。奏さんも、難しいと投げ出さず完成させたのもすごいと思います。

 

奏さん:今ならワンピースが難しいことはわかりますが、当時は分からずに作り始めて大変でしたけど(笑)、やはりミシンが楽しかったです。作り続けていくことで、いろいろな経験につながったことも、とても自信につながりました。

 

PROFILE 佐々木奏さん

「ぬいぬい屋SOU」のブランド名でミシンを使った手芸作品を制作・販売して活躍する中学2年生。第41回ホームソーイングコンクール(HSC)で小学生の部で優秀賞、第42回同コンクールで努力賞、第43回同コンクール中学生の部で優秀賞を受賞。

取材・文/加藤文惠 画像提供/佐々木奏