吉本興業に所属するピン芸人「おばあちゃん」。71歳でNSC吉本総合学院東京校の門を叩き、72歳で芸人デビューするまでの半生は驚きの連続でした。
乳がんの治療をきっかけに、働きながら夢だった大学へ
── 70歳を過ぎてから芸人を目指されたきっかけを教えてください。
おばあちゃん:子どものころからお笑いが好きだったんです。中学生のころ、ボロボロのラジオで花菱アチャコさんや中田ダイマル・ラケットさんの漫才を聞いていました。でも、親は「女性が表に出るなんてとんでもない、学校へも行かなくていい」という考えでしたし、私も親に逆らう勇気がありませんでした。そういう時代だったんですよね。
中学校を出てすぐに就職しましたけれど、「いつか大学へ行きたい」「世の中のために何かやってみたい」という思いはずっと持っていました。64歳で定年を迎えて、主人と「これからはお互い、好きなことをしよう」と話したんです。それがきっかけですね。
── 定年を迎えるまで、どんなお仕事をされていたのですか。
おばあちゃん:造船所の設計部です。中学を卒業して入った訓練校で設計を学びました。一度通信高校に進学しましたが、学費が払えず、17歳で中退しました。「大学へ行きたい」という夢があったので、働きながらあらためて通信制の高校に入り直し、短大も卒業しました。
主人と結婚したのは24歳のときです。職人気質の無口な人で「おはよう」も「ただいま」も言わない。気がつくと黙って食卓に座っていたので、びっくりしました。親が決めた相手で恋愛結婚じゃないから、お互い相手のいいところも悪いところも冷静に見られたのかもしれないですね。ケンカはしたことがないんですよ。
子どもは授からず、夫婦で共働きを続けていたんですが、私が38歳のときに乳がんになってしまいました。CADを扱う部署に異動になってパソコンを使っていたら、左手を動かすとピリッと胸に響く感じがしたんです。
検査を受けましたが、当時はがんを本人には告知しないのが普通なので、結果は教えてもらえません。でも「すぐに家族を呼んでください」と言われて「ああ、がんなんだな」とわかりましたね。
乳房を切除して、抗がん剤治療も受けました。1年後に卵巣に転移が見つかって、その後、子宮がんにもなったので、7年間くらいは入退院を繰り返していました。
職場の上司が理解のある方でね。「元気になったらまた出ておいで」と言ってくださったので、仕事を辞めずに治療をすることができました。私は「おかしい」と思ったら上司であろうとはっきり言ってしまうので、職場には私を嫌っている人もいたと思うんですけど。ありがたかったですね。
── その後、大学へ行くという夢も叶えられたのですね。
おばあちゃん:「いつか大学へ行きたい」とずっと思っていましたからね。乳房を切除して人工胸をつけるようになって、汗で蒸れたり、擦れたりすることに悩んでいました。人工胸を作っている業者さんに電話をして「私が治験者になるから、新しいものを開発しませんか」と持ちかけましたが、けんもほろろに断られてしまったんです。パンフレットには「乳がんの人に寄り添います」と書いてあるのに、全然寄り添ってくれないんだな、と思いましたね。
それなら自分で研究するしかないと思って、服飾専門の教授がいらっしゃる放送大学へ行くことにしました。
大学へ行くことを主人に話したら、「また病気になったか」とびっくりされました。主人は私がやりたいことに反対はしませんが、昔の人ですから家事を分担してくれたりはしません。「協力はできないけれど、邪魔はしないよ」といつも言われてきました。職場の上司にも「仕事をしながら大学へ行く必要はない」と言われて、協力はしてもらえなかったですね。当時はそれが当たり前だったんですよね。
働きながら大学に通った4年間は、ほとんどまともに眠った記憶がありません。大学の授業がある日は、朝出る前に夕食まで作って、横須賀にある職場から横浜にある大学までバイクで通いました。雨の日は主人が釣りで使うカッパを着てね。
担当教授の酒井豊子先生には、本当にお世話になりました。「乳がんの術後の発汗について」というテーマで論文を書きたいと話したら、「大変なテーマだけれど、やる気はあるの」とおっしゃったので「あります!」と答えたら、「じゃあ最後まで面倒みます」と言ってくださいました。私ひとりの力では論文は完成させられなかったと思います。ありがたいことです。
論文は学会でも発表されて、下着メーカーの方にも話をつないでもらいました。私の研究が関係あるかはわかりませんが、その後、そのメーカーさんから人口胸用の新しい汗取りパッドが開発されました。
「吉本に入る」と言ったら夫は「吉本もいよいよ老人ホームに手を出したか」
── 70歳を過ぎてからNSC(吉本総合芸能学院)に入学されたきっかけは何だったのですか?
おばあちゃん:定年後、声を掛けていただいて高齢者劇団で助っ人をしていました。でも舞台のことを何も知らないので、「板付きね」(幕が開いたときに舞台の上に演者が立っていること)と言われても「かまぼこかい?」と思ったり、「はけなさい」と言われても何のことかわからなかったりして。一度ちゃんと舞台の“いろは”から勉強してみたいと思ったんです。
その話をしたら、友人の息子さんがインターネットで調べてくれて、電話番号を書いたメモをくれて「ここへ電話してみな」って。かけたらよしもとの作家養成コースでした。「舞台の勉強をしたいんです」と言ったら、NSCを紹介してもらいました。NSCの人に「71歳なんですけど、大丈夫ですか」と聞いたら、「6階まで階段で上がれれば大丈夫ですよ」って。それで入学を決めました。
主人に「吉本に入るよ」と言ったら、主人は「へえ、吉本もいよいよ老人ホームに手を出したか」と(笑)。まさか芸人になるとは思っていなかったんでしょうね。
── 入学後はいかがでしたか。クラスでは最高齢ですよね。
おばあちゃん:もちろんです。50代の男性が「オレが一番年上で目立つと思ってたのにまだ上がいた!」と言うから「残念でしたー」って。若い人たちには親切にしていただきました。階段では荷物を持ってくれたりね。ありがたいことです。
1年間、毎朝5時に起きて通いました。授業が始まる1時間前に行かないと、先生にネタを見てもらえないんですよ。好きなことをしているから、つらいと思ったことはないですし、授業はとにかく楽しかったですね。ダンスの授業だけはついていけなくて…。3か月経ったころ、私の身体を心配してくださったアシスタントの方が事務所の方と相談してくださり、ダンスの授業はリタイアしました。私は膝の手術もしていましたし、手と足を一緒に上げたらひっくり返っちゃいますからね。
プロを育てる学校ですから、授業は厳しいんです。ダンスだって若い子が汗だくになるくらいですし、発声練習ではどんなに大声を出しても「聞こえない!」と怒られて。腹筋を鍛えられました。
──「おばあちゃん」という芸名はどうして決められたのですか。
おばあちゃん:24期の同期が決めてくれました。授業で「芸名を考えてくる」という宿題が出たんですけど、まさか本当にデビューできるとは思っていなかったから何も考えていなくて、白板の前で「芸名:クレオパトラ」とでも書こうかと迷っていたんです。そうしたら後ろから誰かが「おばあちゃんでいいんじゃない?」って。みんなも「いいね」と言ってくれたから、「おばあちゃん」に決めました。誰が言ってくれたのかはわからないんですよねぇ…。
覚えてもらいやすくて、とても気に入っています。デビューして間もないころ、駅で道を聞いたら駅員さんに「おばあちゃん」って呼ばれて、「あら、私のこと知ってるの?そんなに有名だったかしら」と思っちゃいましたよ(笑)。
PROFILE おばあちゃん
1947年生まれ。2018年に71歳でNSC吉本総合学院東京校24期生として入学。卒業後、ピン芸人としてデビューし「シルバー川柳」ネタが話題に。神保町よしもと漫才劇場に所属している。
取材・文/林優子 画像提供/おばあちゃん