中学生のときに阪神・淡路大震災で被災した佐藤江梨子さん。突然、日常が失われて心にぽっかり穴が空いたとき、ある人の言葉が癒しになったそう。(全4回中の1回)
神戸から大阪に一時避難して
── 中学1年生のときに、阪神・淡路大震災で被災されたとのこと。当時神戸に住んでいたそうですが、佐藤さんの状況はいかがでしたか?
佐藤さん:家はかろうじて大丈夫でしたが、ガスや水道、電気などライフラインが止まり、その日を境に生活が一変しました。支援物資が徐々に届いたり、給水車が来てくれたり、各地からボランティアの方も応援に来てくださいましたが、何日もお風呂に入れないとか、普段の生活とは程遠い感じでしたね。たしか、水道がちゃんと通ったのは震災から3、4か月経ってからだったような気がします。
── 震災をきっかけに神戸から大阪に引っ越しをされたそうですね。
佐藤さん:父の会社が大阪にあったので、一時的に避難する予定でしたが、結局そのまま引っ越しをしました。
── 大阪での生活はいかがでしたか?
佐藤さん:慣れない環境ながら、学校も通ってなんとか生活はできていたんですけど…。
やっぱり突然、日常を失ってしまって、心に大きな穴が空いたような感覚はありました。それに、当時は今のようにSNSが盛んではなく、周りの情報も入りにくい状況でした。そこで頼りになったのがラジオです。元々ラジオリスナーだったのでラジオを聴く習慣はありましたが、震災後はさらにラジオを頼りにすることが増えました。
── 特にどんな部分に助けられましたか?
佐藤さん:もちろん一般的なニュースや情報、神戸の街の状況も伝えてくれて助かりましたが、それ以上にDJの方のお話ですね。よく聴いていた番組のDJの方が、まるで隣にいるような感じで喋ってくれて、それがすごく楽しみで。急に大阪での生活がスタートして、それなりになんとかやっていたものの、大阪では大阪の言葉が日常になるんです。
もちろん、大阪弁は魅力的なんですけど、やっぱり馴染みのある神戸の言葉…神戸弁って言うんですけど、神戸弁を聞いたり話したりする機会が突然減ったのでとても寂しくて。でも、私が楽しみにしていたラジオでは、DJの方が神戸の言葉で語ってくれて、隣で話し掛けてくれるような感覚でいられて。ラジオを聴いているときだけは、あの時の日常に戻れたような、ホッとするような、そんな気持ちでいられたんです。
そうしているうちに、いつも聴いていたラジオ局で、ラジオのパーソナリティの募集がありました。ラジオにはすごく助けられたし、そうした業界にも興味があったので応募してみることに。高校1年生のときですね。
── 結果、無事にパーソナリティに選ばれて。
佐藤さん:ありがたいですね。私がラジオのお仕事に携わった後も、ずっとそのDJの方に会いたい、会いたいって言い続けていたんです。そしたら私が20歳くらいのときに、そのDJの方と会えたんですよ!しかもお話までさせてもらったら、実は私が以前住んでいたマンションの近所に住んでいたことがわかって。ずっと追いかけていた人だったのに、まさか近所に住んでいたとは…。世間は狭いですね。ただ、私がその方に対して憧れが強すぎたので、それ以上、連絡を取ったりっていうのはできなかったです。
高校は芸能コースに変更して
佐藤さん:はじめは堀越学園の普通科に入学しました。高校1年生のときにイエローキャブに入って、一気にお仕事が忙しくなっていくと、学校と仕事の両立が難しくなってきて。3年生から普通科から芸能科に変更したんです。
── 普通科と芸能科では、どう違いましたか?
佐藤さん:芸能科では芸能のお仕事がしやすいように融通がききやすいんだと思います。通常の開始時間より早く学校を開けてくれて授業や補講をしてくれたりしました。学校と仕事の両立はハードでもありましたが、全てに全力投球で充実した時間が過ごせていたと思います。
PROFILE 佐藤江梨子さん
高校在学時、1999年に『大磯ロングビーチキャンペーンガール』にて選出。以後、グラビアモデルのみならず映画・テレビ・舞台等・女優として幅広く活動中。
取材・文/松永怜