昭和歌謡をレパートリーとする歌手であり、漫談を得意とする芸人としても活動するタブレット純さん。『阿佐ヶ谷アパートメント』(NHK)で注目を集め、今年6月には草月ホールでの単独リサイタルも成功させました。彼が愛してやまない昭和歌謡との出会いや、デビューのきっかけについてお聞きしました。

 

昭和歌謡人気も相まって、注目度が高まっているタブレット純さん(写真/御堂義乘)

AMラジオと古いものが好きな小学生

── 子どものころは、どんなお子さんでしたか? 

 

純さん:僕はテレビよりもラジオが好きだったんです。とくにAMラジオに興味があって、玉置宏さん(元文化放送アナウンサー)がやっていた番組をよく聴いていました。その番組では古い曲が流れていたので、そこから昭和歌謡が好きになっていきました。

 

── 元々、音楽に興味はありましたか?

 

純さん:父が車の中で水原弘さん(1959年デビューの歌手)のカセットテープを聴いていたんです。最初は暗い歌だなと思っていたのですが、水原さんって若くしてお酒が原因で亡くなられている。亡くなる間際に録音された曲があって、なんだかすごい歌だなって感じました。子どものころから、流行っている歌よりも昔の曲のほうになんとなく馴染みがあって。

 

小学生のころのタブレット純さん
可愛いすぎる小学生のころの純さん

── 古いものに惹かれていたのですね。

 

純さん:水原弘さんはアースの強力殺虫剤の看板に出ていたんです。彼の看板とセットで由美かおるさんの『アース渦巻』の看板も、昔はあちこちに飾ってあった。懐古趣味的に、過ぎ去った時代を感じられるものが好きなんです。

 

── 子どものころは、どんな遊びをしていましたか?

 

純さん:小学生のころにファミコンブームが起きたのですが、うちにはなかったので友達の家で遊んだりしていました。何にでも駆り出されるタイプだったので、野球や外遊びもつき合いましたよ。よく冗談で「友達はいませんでした」と言っているのですが、子どものころはいろんなグループに所属していた感じですね。

 

── いつごろから昭和歌謡を歌うように?

 

純さん:さかのぼると、マヒナスターズ(和田弘とマヒナスターズ、1957年デビュー)が好きになったのが小学生のときなんです。声変わり前だったのに、低い声が出たり、裏声で高い声も出せたので、「一人マヒナスターズだ」って言いながらよく歌っていました。

 

── 小学生のときにマヒナスターズに興味を持つのは珍しかったのではないでしょうか。

 

純さん:そうですね。周りのクラスメイトどころか、担任の先生も知りませんでした。当時は、古い曲がかかりそうなラジオ番組を録音していて。ヒットしている曲よりも自分が好きな曲があるんじゃないかなって思って夢中になって聴いていました。

周りから浮いていじめられていた中学時代 救ってくれたのは昭和歌謡

── 90年代に入ると、バンドブームと呼ばれるムーブメントもありました。興味はありましたか?

 

純さん:バンドにはハマることはなくて、それよりもグループサウンズ(通称GS)と呼ばれる音楽にハマっていました。当時、テレビで放送されたドリフターズの映画をよく観ていて。ドリフの映画には、何の脈絡もなくザ・タイガース(沢田研二さんがボーカルを務めていたバンド、1967年デビュー)が出てきたりしたのですが、それを観てGSを知って、ほかにどんなバンドがあるのだろうと夢中になっていきました。

 

とにかく昭和歌謡が生き甲斐だったという中学時代

── 音楽にハマっていたと聞くと、目立ちたがり屋だったのかな?と想像してしまいますが、実際はどうでしたか?

 

純さん:すごく引っ込み思案な性格で、人前に出て何かをやるのは絶対にありえないタイプでした。

 

── 学生時代に、バンドを組んで文化祭で演奏した経験は?

 

純さん:まったくないですね。中学になると人とは違う変わった趣味にハマっているという理由で、いじめられたんです。どんどん後ろ向きで暗い青春になっていきました。とにかく毎日、どうやっていじめを潜り抜けるかという状況だったので、バンドなんてやっている人は雲の上の存在みたいな感じでした。

 

カルチャースクールの昭和歌謡講座の講師も務めている

── そのような状況で、夢中になったのが昭和歌謡だったのですね。

 

純さん:そうですね。将来の目標もないし、過去のものが生きがいでした。中学生時代はGSにハマっていたので、日曜日に中古レコード屋に行って、持っていないレコードを探すのが生きがいだったんです。

 

その時期にGS研究家の黒澤進さんという方と知り合って、週1で文通をしていました。今はSNSなどがあるので同士がすぐ見つかると思うんですが、当時はもっと閉塞感がった。黒澤先生との交流が命綱、みたいな感じでした。

 

── 黒澤先生とは、どのように交流していたのですか?

 

純さん:黒澤先生に対しても、中学生だということがバレると不審がられると警戒して、自分の年齢を50代と偽っていたんです。今にして思えば、そこまで追いこまれていたのかなって感じですよね。

 

── そんなに追いこまれるとは…。でも、昭和歌謡や黒澤先生との交流があったから、前向きになれたのでしょうね。オンタイムで好きだったバンドはなかったのでしょうか?

 

純さん:唯一好きだったのが、筋肉少女帯です。中3のとき、深夜番組でボーカルの大槻ケンヂさんが卒塔婆を持ちながら『イタコ・LOVE ~ブルーハート~』という歌を歌っていたんです。それを見て「この人たちは相当ヤバいな~」って心を奪われたんですよ。

 

そんな大槻さんとは交流があって、3年ほど前からイベントに呼んでいただいています。そのイベントでしか仕事ではお会いしないのですが、たまに道で会うこともあって。お互い人見知りだから、ものすごく困るんですよ(笑)。

 

筋肉少女帯のみなさんと共演後に一枚(純さんは右から2番目、真ん中が大槻ケンヂさん)

まさかのマヒナスターズ加入! 介護職との二足のわらじ

── 歌手活動をされる前は、どのような仕事をしていましたか?

 

純さん:高校を出てからはずっと古本屋でバイトしていました。8、9年くらい続けていましたね。その後は、介護の仕事をしました。黒澤先生と文通してから、ムードコーラスというジャンルの研究をして、フリーペーパーに文章を書いていたことも。

 

その流れで、「ムード歌謡がそんなにも好きだったら、音楽を習ってみないか」と言われた3か月後に、突然マヒナスターズに加入することになりました。当時、マヒナスターズはメンバーの脱退が相次ぎ、解散の危機に瀕していて。そんなタイミングで素人同然の僕に白羽の矢が立ったんです。

 

意外とやんちゃだった?バイクにまたがり笑顔を見せる高校時代の純さん

── 自分が好きだったグループに加入することになり、どんな気持ちでしたか?

 

純さん:ロクに人と話せないような人間だったんで、嬉しいような不安なような…。両方の気持ちがせめぎあうような状況でした。

 

── 当時は、歌手活動以外の仕事はしていましたか?

 

純さん:マヒナスターズに加入するちょうど1年ほど前に、介護の仕事を始めていました。ヘルパーの資格を取ってすぐに、ある介護関連の会社から「新規で立ち上げる部署があるから来てほしい」と声をかけられたんです。

 

ただ、入浴介護の仕事がメインだったので、大変だし腕力も必要。一番男らしさが必要な場面で、自分は車の運転もうまくないし、利用者を担ぐこともできなくて…。「なんだコイツ、何もできないじゃないか」って、会社の人たちはみんなびっくりしていたと思います。

 

PROFILE タブレット純さん

歌手・芸人。独特なスタイルの漫談で、数多くの劇場に登場。2023年には歌手として『銀河に抱かれて』をリリース。近年は『阿佐ヶ谷アパートメント』(NHK)や『大竹まこと ゴールデンラジオ!』(文化放送)などにも出演し、活躍の場を広げている。

 

取材・文/池守りぜね