なでしこジャパンがサッカー女子W杯で優勝して、日本列島がわいた2011年。その12年前のW杯で日本人史上2人目のゴールを決めた大竹七未さんが、夢舞台で見た景色を振り返ります(全4回中の1回)。

 

49歳とは思えない!現在の大竹さんがW杯を振り返ります

重圧のW杯「得点シーンは昨日のように…」

── 元日本代表のエースストライカーとして数々の国際試合でゴールを決めた大竹さん。現役時代、もっとも心に残る試合は?

 

大竹さん:1999年の第3回女子W杯アメリカ大会が印象的です。当時からアメリカでの女子サッカー人気は日本とは比べものにならないくらいすごくて、満員のスタジアムの光景は忘れられません。

 

初戦のカナダ戦で得点を決められたときは本当にうれしかったです。20年以上たったいまでも、ゴールシーンはどこからボールが来て、どのコースに得点を決めたか、すべて覚えています。

 

いまのシステムと違い、W杯での成績が翌年のシドニーオリンピック出場を左右するため、より大きな重圧を感じました。とくに、バブルがはじけ企業の支援も下火になった時期だったので、日本の女子サッカー界の状況を変えるのは私たちだという使命感ですごくプレッシャーを感じていました。試合前に初めて「試合が中止になればいいのに」とまで思いつめたくらいですから。

 

── 多くの国際大会で活躍された大竹さんですら、そんなにプレッシャーを感じるなんて、W杯は特別なんですね。W杯は小さいころからの夢でしたか?

 

大竹さん:8歳からサッカーを始め、小学校6年のときには「日本代表になりたい」と夢を描いていました。そして13歳で双子の妹と一緒に実業団の読売ベレーザ(現・日テレ・東京ヴェルディベレーザ)に入団しました。

 

選手時代の大竹さんはフォワードとして活躍

── 中学生から大人と一緒にクラブチームで練習。サッカーと学業の両立は大変でしたか?

 

大竹さん:もう大変すぎて、泣きながら勉強したこともあります。当時、テレビのインタビューでは、「サッカー以外は勉強です!」と答えていますが、サッカー以外の時間ずっと勉強していた感じでした。

 

18時から21時までクラブチームの練習があるので、片道1時間半以上かかる電車やバス内での時間と授業中しか、勉強する時間はありませんでしたから。聞き逃したら大変なので、授業中はどんなに眠くても一度も寝た記憶はありません。

大学進学より「サッカー選手になる」に猛反対され

── 努力がみのり、学業成績もよかったそうですが、サッカーを仕事にしようと決めたきっかけは?

 

大竹さん:頑張りましたが、勉強とサッカーの両立は地獄のようにしんどくて。大学でもこれが続くなんて耐えられない!私は何よりもサッカーをしたかったんです。

 

だから、高校の進路指導で「大学へは行きません、サッカーで生きていきます!」と宣言。でも先生は、「男子ですらサッカーで食べていくのは難しいのに、どうやって飯をくっていくのか?」「サッカーができなくなっても、つぶしがきくから大学に行きなさい。もし、ケガが治らなかったらどうする?」と猛反対されました。

 

両親は「自分の好きな道を行きなさい」と早々に認めてくれましたが、先生とは3か月間、面談しつづけて心が折れそうになりました。最後は「そんな簡単な気持ちでサッカーやってません、人生かけてサッカーやってます。私はサッカーで食べていきます!」「治らないケガなんてありません!」と押しきりました。

 

── 当時はまだ、男子のプロリーグ(Jリーグ)さえ発足前だったので、サッカーを仕事として生活できるか先生も不安に感じたのでしょう。その後は?

 

大竹さん:ちょうどベレーザが西友とスポンサー契約したので、西友本社(企画宣伝部)で働きながら練習する環境に身を置くことに。その後、ベレーザとプロ契約し、W杯にも行きました。

 

── 「サッカーで食べていく」を実現されましたね。現役時代のもっとも印象に残ったシーンとして米国でのW杯を挙げられましたが、ストライカーとしてピーク時期のプレーはどのような感じでしたか?

 

大竹さん:私たちは「ゴールの匂いがする」と表現しますが、得点するときはボールがここに来る!と直感でわかったりするんです。ボールがどのような軌道を描いて来るかなど、流れがすべて見えるんです。その匂いは状況や場面によっていろんなパターンはあるのですが、得点が入るときはたいてい同じ光景になります。W杯もですが、自分の得点シーンはいまでもすべて覚えています。

妹が体調を崩し「支えたい」と1年間看病する日々

── そんなふうに見えるんですか!極めるとストライカー独特の“勘”がはたらく…。しかし2001年、27歳で引退。少し早い気がします。

 

大竹さん:早かったですね。じつは双子の妹が体調を崩してしまい、代表合宿を切りあげて帰宅し看病に入りました。それまでも私はケガで何度も離脱した経験がありましたが、いずれもリハビリをしながらでした。

 

このときはじめて、サッカーから半年間完全に離れたんです。走ることも練習場に行くこともありませんでした。そして、妹の回復後、改めて選手としての復帰を目指して練習を再開。この段階では、引退はまだ考えていませんでした。

 

── 半年間のブランクから身体を戻すのは大変だったのでは?

 

大竹さん:自分を初めてみじめだと思いました。ボールが怖くなり、グラウンドで歩くことから始めたくらい。自分のなかの“戦う気持ち”がすっかりなくなっていて。気持ちをふるい立たせるところから始めることはとても苦しく、ベレーザでも代表でもエースとしてやっていた時期だったので、ゼロからやり直すのは本当につらかったです。

 

1年間頑張って体をベストの状態に戻し、監督から「代表に戻すぞ」と連絡をもらいましたが、そこで気持ちがぷつんと切れてしまいました。

 

── そのひとことで、気持ちが切れてしまったのですか?てっきり、努力が報われ意気揚々と代表に戻るのかと。

 

大竹さん:自分でもうまく表現できないのですが、「終わった」と思えて…。これまで腰の分離症、疲労骨折、股関節の亜脱臼、足首骨折など、たくさんケガしてリハビリをしながら、「もうダメじゃないか」と思ったときは何回もありました。それでもやっぱり目標や夢、チームや家族の支えがあったから乗りこえられました。

 

小学6年生で「日本代表になりたい」と夢を抱いてから、何も恐れず突き進んできました。そしてリーグ優勝やW杯出場と、これ以上ないくらいのものを経験。でも、サッカー選手としてプレーを続けるより、妹の看病を選んで、その後、1年間かけて身体を戻したとき、続ける気持ちが消えてしまった。「頑張りきった」という気持ちもあり…。

 

そして「サッカーから解放されたい」と、27歳の誕生日に引退しました。これからはピッチの外側から女子サッカーを盛り上げよう、と考えての決意でもありました。

 

PROFILE 大竹七未さん

サッカー解説者・指導者。全日本選手権4連覇、日本女子リーグ3連覇など、フォワードとして活躍。Lリーグ(現WEリーグ)では最速で100得点を達成。日本代表のエースとして、五輪やW杯など、国際Aマッチに46試合に出場して30得点。2015年長男を出産。2022年、株式会社ティアラ・7を設立し、日焼け止め商品「N SHOOT」の開発や販売をてがける。

 

取材・文/岡本聡子 画像提供/大竹七未