SPPED時代は多忙を極めたと語る島袋寛子さん。グループの人気とともに、心の余裕がなかった時期もあるといいます。

「寛子を守らなきゃ」

── SPEEDのメンバーでは最年少だった島袋さん。10代の頃はひとつでも学年が違うと年齢差を感じる人もいますが、島袋さんの立ち位置はいかがでしたか?

 

島袋さん:私自身はそんなに年齢差を感じなかったんですけど、他のメンバーは私を妹のように大切にしてくれたと思います。「寛子を守らなきゃ」っていう意識は、大人になった今でも伝わりますね。ただ、当時の私は負けん気が強くて生意気だったので、年下扱いとか何のそのって(笑)。でも、年齢を重ねるにつれて甘えることを覚えていくんです。今はたまにメンバーの中に入ると、そうだ、妹だった、妹になっちゃえ…!って感じで過ごしています。

 

── 当時は日々忙しかったと思いますが、メンバー同士で喧嘩をするようなことはありましたか?

 

島袋さん:喧嘩はなかったかな。喧嘩はないけど、どうしても疲れちゃって、誰とも喋らない時間帯はありました。

 

── 想像を絶する忙しさだったのかと。

 

島袋さん:自分のことでいうと、あの忙しさを3年、4年やっていると人間って…、自分の感情ってわからなくなる。自分は何が好きで、何が嫌いなのか。今、何が食べたいのかもわからなくなるくらい欲もなくなってくるし、感情が0になっていくんです。感情が無…どこに行っても感情が機械のように感じなくなって、それが怖くなくなるというか。

 

今思えばですよ。歌って踊ることは大好きだったはずなのに、あまりにも毎日追われてしまって好きかどうかもわからなくなってしまって。初めて出会う感情がいっぱい出てくるんです。混乱も起きるし。こんなに好きだったはずなのに、なんだろう…この感情はって。そこを考えていると自分の気持ちがわからなくなるし、考えなかったら考えなかったで怖いし。当時は多分ギリギリ…、精神状態がギリギリだったと思います。

 

ネガティブに捉えてほしくないんですけど、ただただ余裕がなかったんだと思います。ずっとエネルギーを出し続けていたので。ある程度、大人になれば、自分の気持ちの整理の仕方もわかったかもしれないですけど、自分でジャッジするほどの経験材料も少なかったですし。

 

SPEED時代 クールな目線でカメラを見つめる島袋さん

── 自分を内省する時間はありましたか?

 

島袋さん:常に内省してました。自分の気持ちがハッキリしていないと動けなくなっちゃうので毎日、家で内省はしてたんですけど、全然答えが出なかった(笑)。ライブもすごく嬉しいし、みんなとワーって盛り上がってひとつになる喜びも感じてるんです。でも、ワーってなるんだけど、それ以上にみんなを楽しませないといけない責任感とか。絶対100以上のものを作らないといけないプレッシャーもあったし。たくさんの人が関わっているから自分の行動ひとつ、発言ひとつに責任があって、ずっと緊張している状態でした。すごく忙しいんだけど、置いていかれるような気持ちもあって。

考えていたら波に乗れないけれど

島袋さんプライベートショット。青いジャケットとサンダルでのんびりと

── 置いていかれるというのは、どういう感覚ですか。

 

島袋さん:物事が大きな波に乗っかると、自分の意思とは関係なくても、次から次へとやることが待ってるんです。歌って踊って一つひとつ喜びを表現したいけど、感情をちゃんと受け止めている余裕がないくらい分刻みで動くし、その感覚が当たり前になっていくんだけど。どこか置いていかれる感じ…自分のリアルが追いつかない。何かを考えたり疑問を持ったりしてると、波に全然乗っていけないし、考えすぎると乗り遅れちゃうから。でも、疑問はポッポポッポ残ったまま、それでもこなすっていうか、こなせちゃうし。贅沢なことだとわかってるんですけど。

 

そんな状況でも、リアクションはできるんですよ。パンっ!てきたら、すぐ反応するんです。でも嬉しいとか、イライラするとか、感情を落としこむことができないしその余裕もない。私は性格的に落としこむタイプだったんだけど、落としこめるようなスピード感ではもちろんなかったし。ちょっと記憶が曖昧ですけど、記憶が飛んでるくらいの忙しさでしたね。

 

── グループ内やご家族にそういったお話はされましたか?

 

島袋さん:誰にも言わなかったですね。毎日母には電話して、「今日何々したよ、こんなことしたよ、おやすみ」っていう話はしていましたけど。メンバーも、そういったことを感じてるのかすら、わからなかったですし。それよりも歌詞を覚えなきゃいけない。ダンスのフリを覚えなきゃいけない。歌詞やメロディーも、朝、学校に行く車の中で1、2回聞いてパッと覚えるような脳の使い方をしてたので。

ここは絶対に歌いたい!と思ったフレーズ

── SPEED時代、今振り返って楽しめましたか…?

 

島袋さん:わからない(笑)。とても恵まれていたと思いますけど、今のほうが楽しめると思います。当時は、楽しみ方がわからないまま、初めての経験をたくさんさせてもらって。ドームに立ったときはもちろん感動してるんです。でも、正直にいうといい歌を歌わなきゃ、みんなが満足できるように楽しまなきゃっていうほうが大きかったので。

 

ただ明確に覚えているのは、レコーディングはワクワクしました。プロデューサーの伊秩さんはとても忙しい方なので、歌詞がレコーディング当日、ギリギリに届くことも多かったんですけど。はじめにメロディーだけ渡されていて、レコーディング当日に歌詞が来て、伊秩さんに「ここエリ、ここヒロ歌ってみて」ってパートを振り分けられてレコーディングに入っていくんです。

 

歌詞を見たときに、ここは絶対歌いたい…!伊秩さん、このパート私に当ててくれないかなぁって思いながら任されたときは「やった!ここ歌えた!」みたいな感動は最後までありましたね。そのときの興奮とか、パートを歌えた喜びみたいなものは今でも残ってます。

 

── 特にどの曲に、とかありますか?

 

島袋さん:『White Love』(作詞:伊秩弘将)かな。【天使がくれた出逢いは奇跡なんかじゃないよ】のところ、あそこ歌いたくて。あと最後の【あなたの為に生きていきたい】のところ。ここ決めたい、めっちゃ歌いたい!って思いながら自分のパートで歌えるって聞いたときは、ガッツポーズした記憶はありますね。今聞くとどこも素敵なパートなんですけど、あの歌詞はどうしても歌いたいなぁって、感情が高まりみたいなものがすごくありましたね。

 

── 今、時間を経て聴いてもなお名曲です。

 

島袋さん:ありがとうございます!今でも皆さんに愛される曲のひとつになっていたら嬉しいです。

 

PROFILE 島袋寛子さん

沖縄県出身。1984年生まれ。1996年SPEEDのメンバーとしてデビュー。1999年にソロデビューを果たし、2000年グループ解散後も歌手として活動中。2023年3月アルバム「UTAUTAI」発売、7月からHIROKO SHIMABUKURO Live 2023 「0」の開催決定。

 

取材・文/松永怜