フジテレビの人気局アナとして、多くの番組を掛け持ちして過ごしていた富永美樹さんは、突然、テレビから姿を消します。日々の葛藤と逡巡なき決断に秘めた思いとは。

 

インスタで「ここはどこ?」と話題になった場所での1枚

凹んでいるときにかけられた先輩の言葉で立ち直れた

── 1994年に倍率1000倍という狭き門を突破し、フジテレビのアナウンサーとしてキャリアをスタートされました。アナウンサーを目指すようになったのは、いつからだったのでしょうか?

 

富永さん:大学3年生で就職活動をするまでは、アナウンサーの仕事はまったくノーマークでした。ただ、もともとスポーツが好きで、家族でよく野球を観に行くこともあり、スポーツニュースをさっそうと読む女性キャスターを見て「素敵だな」と憧れていました。アナウンサーは一般企業よりも入社試験が早くて受けてみたら、なぜか合格してビックリしたのを覚えています。

 

── 新人時代から、バラエティー番組で奮闘されていた姿が印象に残っています。当時のバラエティーは、体育系のノリで体を張ったお笑いも多かったと思いますが、とまどいはなかったですか?

 

富永さん:もちろんありましたよ。いまでも忘れられないのが、顔を真っ青に塗られ、ゾンビのようなメイクで女子高生の格好をさせられたことです(笑)。「これも仕事のうちだから」と自分を奮い立たせて収録に挑んで番組は盛り上がったものの、「私、こんなことがしたかったんだっけ…」と落ち込みました。

 

その格好のまま、とぼとぼと廊下を歩いてアナウンス室に戻ったら、「大丈夫、きっと誰かが見てくれているから」と、励ましてくれたのが、当時、先輩アナウンサーだった川端健嗣さんでした。あまりに落ち込んでいる私を見て、きっと気の毒に思ったのでしょうね。ただ、私も単純なので(笑)、「そうか!何事も一生懸命やれば、何かにつながるに違いない」と、持ち前の前向きさを発揮して乗りきりました。

「そんなに泣かせるなよ」長野五輪の名台詞を生んだインタビュー

── 素直さは最強の武器ですね。とはいえ、早朝から夜遅くまで、いくつも番組を掛け持ちされ、かなりハードなスケジュールだったのでは?

 

富永さん:そういう時代だったと言ってしまえばそれまでですが、月に2〜3日しか休めないこともザラでした。休みを申請しても、制作部門から「なんとかならないかな?」と直接連絡がきたりして。いまではないと思いますが、当時はそんなことも。

 

ただ、自分が体験したことを伝えられるアナウンサーの仕事にやりがいを感じていましたし、それができるのも局アナという肩書きがあるからだとわかっていましたから、チャンスをいただける環境に感謝する日々でしたね。入社3年目に『めざましテレビ』で念願のスポーツコーナーを担当することに。なかでも印象に残っているのが、98年の長野オリンピックでジャンプ団体金メダルを取材したことです。

 

── 懐かしいです。原田雅彦選手の涙に日本中がもらい泣きしました。

 

富永さん:あの日は悪天候で、取材現場の白馬に行くのもひと苦労でした。途中で大渋滞に巻き込まれ、「このままじゃ間に合わない!」と中継車を降り、みんなで機材を担いで吹雪のなかを30分歩いて現地入りしました。

 

会場に原田選手のお兄さんが来ていることを知り、観客をかき分けながら、なんとかコメントを取り、その後、原田選手へのインタビューでお兄さんの言葉を伝えたところ、「そんなに泣かせるなよ~」とウルウルされて。その映像が各局で使われてすごく嬉しかったですね。

 

そこから、インタビューのお仕事が大好きになりました。その方がどんな人に支えられ、どんな思いでそこに立っているのか。自分なりの視点を持って、その方の「人となり」がわかるような取材を心がけるようになりました。

局アナ絶頂期に辞めて主婦へ専念「いまを大事に決めたこと」

── 98年、「シャ乱Q」のまことさんとの結婚を機に、フジテレビを退社されました。順調にキャリアを積み、レギュラー番組を掛け持ちするなか、4年半で局アナを辞める決断をされたのはなぜだったのですか?

 

富永さん:彼がミュージシャンで忙しかったということもありますが、正直、4年半の局アナ生活で、テレビ局で働くことに向いていないと痛感したからです。

 

── 向いていない、というのは…?

 

富永さん:いろんな仕事をさせていただきましたが、自分のスキルが未熟で失敗したり、うまくできなくて落ちこむ。でも、そこで立ち止まって振り返ったり、反省する間もなく、仕事が次々とやってきて、それをこなすのに精一杯の日々でした。リカバリーの方法もわからないから、「これでいいのだろうか…」と、つねに葛藤があり、ずっと不安でした。「うまくできてない自分」と戦い続けるのが、辛かった。

 

もともとマイペースでのんびりした気質もあり、その回転の速さについていけず、心身が疲弊してしまったんです。仕事にはやりがいを感じていたので、「ここでやめるのはもったいない」という気持ちもありましたが、とにかくこの環境からいったん離れて、自分を立て直したいと考えました。

 

── 局アナをやめた後、フリーに転身されるのかと思いきや、「家庭に入る」選択をされたのも意外でした。

 

富永さん:いまの自分のスキルではどちらも中途半端になってしまい、両方失いかねない。自分が一番したいこと、すべきことは何なのかを考えた結果、まずは、しっかり家庭という基盤をつくって、夫との暮らしに専念し、その後で自分がどう感じるかを大切にしようと思ったんです。

 

私は、「0か100か」の思考しかできないタイプ。目の前のことに集中し、納得してからでないと前に進めないんです。だからこそ、常に「何を大切にしたいのか」という心の声を聞くことを大切にしています。

 

PROFILE 富永 美樹さん

1998年、「シャ乱Q」まことさんとの結婚を機にフジテレビを退社。現在は、フリーアナウンサーとして、「東大王」などのクイズ番組や商品プロデュース等でも活躍。現在、東京と山梨での2拠点居住中。環境省「つなげよう、支えよう森里川海アンバサダー」を勤め、SDGs活動を発信している。

 

取材・文/西尾英子 撮影/伊藤智美 画像提供/スターダストプロモーション