元NHKで、現在はフリーアナウンサーの住吉美紀さん。学生時代は「ミステリーハンターになりたい」とテレビ局に問い合わせた過去もあったとか。1996年にNHKに入局、実際に海外からの中継番組を担当しますが、想像以上に過酷な日々でした。(全5回中の1回)

小学生時代はアメリカ、高校生時代はカナダで育つ

── 1996年にNHKに入局されました。アナウンサーを目指したきっかけを教えてください。

 

住吉美紀さん
シアトルに住んでいた少女時代の住吉さん(左)。ハンバーガーにかぶりつく姿が様になっている!(写真提供/本人)

住吉さん:父の仕事の都合で小学生のころシアトルに住んでいたんです。自分のなかに日米2つの文化があったので、「将来は英語関係の仕事ができたらいいな」とぼんやり考えていました。

 

中学に上がる前に一度帰国するんですが、高校時代、父の転勤で今度はバンクーバーに行くことになるんです。それを機に、英語が“手段”になってしまっていて、英語そのものを目的として勉強することに、興味が持てなくなってしまいました。

 

住吉美紀
バンクーバーで高校時代を過ごした住吉さん。卒業式用ガウンがとてもお似合い(写真提供/本人)

帰国してICUに入学したんですが、じゃあ将来何をしようか、と。環境問題に興味があったので、環境NGOも考えました。でも、ボランティアに行ったときに、NGOでは人材育成をする余裕がないことを知ったんです。すでに能力と経験を身につけた人が働くところだから、社会でもっと力をつけないと役に立てないんだな、と知りました。

 

それでどうしようか、と考えていたとある夏休み、ICU平和研究所主催の学生と教授が行く研究旅行に参加したんです。アメリカ・ニューメキシコ州で、低レベル核廃棄物処理場やネイティブアメリカンの居留地を訪れ、「平和」をキーワードに現地の方々にお話を聞いたんですが、同行した教授陣は、日本語がほとんどできなかったんですね。そこで、日本からの学生グループのなかでたまたま英語と日本語がいちばんできる私が、現地の方々の話をみんなに日本語にして伝える通訳のようなことをしたんです。

 

その経験から、現場で人に話を直接聞いて、感動したり感銘を受けたりしたことを誰かに伝えるって、めちゃくちゃおもしろくてやりがいがあるなって感じたんです。それがいちばんのきっかけでした。

 

帰国後、その旅行について後輩向けに報告会があったんですが、誰もやりたがらなかったので、仕方なく私が司会をしました。会の後、普段は厳しい担当教授が「本当のアナウンサーみたいだったよ」と褒めてくださって。その言葉で、初めて「アナウンサー」という単語が、私のなかにアイデアとして入ってきたんです。その後すぐ就活に入り、本格的に志望していった形ですね。

 

住吉美紀さん
入局当初は福島放送局に配属された住吉さん。アナウンスや取材の基本を学んだ(写真提供/本人)

── NHKで転機となった仕事はなんでしたか?

 

住吉さん:2003年から4年間、「世界遺産の旅」というハイビジョン生中継番組を担当したことですね。ちょうどNHKがハイビジョンを普及させようと力を入れているタイミングで始まった大型企画でした。

 

2003年はスペイン、04年がドナウ川流域、05年がイタリア、06年がフランス。50人乗りの観光バスを借り切って、大勢のスタッフで1週間で1000キロ近く移動しながら、毎日中継を出していくというものでした。

 

「世界遺産の旅 スペイン」で、現地から中継する住吉さん(写真提供/本人)
── 旅一座、みたいですね。

 

住吉さん:

まさに、そうです。毎日大変で。1週間ほぼ毎日、1、2時間しか眠れない。下見して、仕込んで、打ち合わせして、次の日のコメントを考えて…。

 

夜中になるとみんな眠くてバタバタ倒れていくけど、私は準備が終わるまで倒れられない。私が倒れたら放送が出ない!と思って、ほぼ徹夜。日本の夜に放送の番組だと、時差で現地は中継が朝いちばんにあるんです。それが終わるとサンドイッチが配られて、バスに乗ってまた数百キロ移動、その繰り返しの1週間でした。

 

肉体的には本当にしんどかったですが、夢だったことが叶っているから「今頑張らないでどうする!」みたいな。

 

── 夢だったんですか。

 

住吉さん:私、入社したときから「日本と海外の懸け橋になるような仕事がしたい」と言っていたんです。言葉や文化は違っても、人間同士、必ず共感できることがあるはず。それを伝えられるような仕事がしたい、と。入局後、先輩からは「そんな仕事ないよ」と言われていましたが、あきらめずにいました。

 

実は私、大学時代「ミステリーハンター」になりたくて。TBSの代表に大学の公衆電話から電話したことがあるんです。「ミステリーハンターになりたいんですけど」って(笑)。

 

 「事務所には入ってますか?」と聞かれて「入ってません」と言ったら、「事務所に入ってないと、できないんです…」と断られたんですけれど。

 

だから、海外中継シリーズが形になったときには、本当に「うわ、キターッ!夢がかなった!」という感じでした。最初はリポーターから始まったんですが、最後はキャスターもやらせていただきました。「今私、針千本刺されても痛くない!」みたいな、アスリートでいうフロー状態のような現実離れした力が出ました。

 

住吉美紀さん
「生中継が大好き」と語る住吉さん。NHKでの経験が、ラジオパーソナリティとして活躍する現在にも生きている

チーム一丸とならないと放送できない「生中継」

── ネタの仕込みも住吉さんがやられたんですか?

 

住吉さん:チーム一丸となってやる感じですね。私、生中継が大好きで。カメラマンから、ディレクター、フロアディレクターまで、全員が一丸となって役割を果たさないと、放送ができないんですよね。番組の基礎はディレクターが作るにしても、最終的には私が自分の言葉で伝えるので、自分で腑に落として、言葉にしていく。

 

たとえば、どこに注目してリポートするのかは事前に打ち合わせる必要がありますよね。「このドアノブをご覧ください」というときに、事前に私がドアノブの話をすると伝わってないと、カメラマンもそこをアップにできない。どのくらいの尺で、どこに注目すべきか。チーム一丸で話し合ってつくっていきました。

 

大型中継はいつもあるものではなかったので、担当できてラッキーだったし、NHKに就職して良かったと心から思いました。

 

住吉美紀さん
海外中継は多くのハプニングも。でも、それも魅力のひとつと語る住吉さん

「鍵が開かない!」VTR中に全力疾走

── 海外からの生放送と聞くと、いろいろなハプニングが起こりそうなイメージがあります。

 

住吉さん:もちろんいろいろありました!ハプニングを含めて、生放送ならではのおもしろさや貴重さがあるんです。そして、なんとか無事に出したという達成感がすごかった。

 

たとえば、日本みたいに事前に「中継中に通りますので、ここの鍵を開けておいてください」とお願いしておいても、世界には、開けておいてくれる人ばっかりじゃないんですよ(笑)。

 

本番中に「鍵、開かない!」みたいなこともあって。「VTR、3分の間に走れ!」と全速力で走って別の入り口から入って、中継が再開したらゼーゼーしながら「私たちはっ…今っ、お城の内部に来ています…っ」ということも実際にありました。

 

生中継中に間違った行き先のケーブルカーに乗ってしまったり、地元の方が割り込んで私たちに話しかけてきたり、ハプニングだけで何時間も話せるくらい、いろいろとありました!一緒に頑張ったチームとは、何回飲み会してもこの話で盛り上がれますね。そういうハプニングが起きたとき、どう知恵と工夫で乗りきるかというのが、またおもしろいんです。

 

自分にとっては宝のような経験でした。いまだに一緒にやったチームは、家族のように感じます。

 

PROFILE 住吉美紀さん

1973年生まれ。小学生時代をシアトルで、高校時代をバンクーバーで過ごす。1996年NHK入局。「プロフェッショナル仕事の流儀」「スタジオパークからこんにちは」などを担当。2011年からフリー。2012年からラジオ番組「BlueOcean」のパーソナリティを務める。2022年からSpotifyでポッドキャスト「その後のプロフェッショナル仕事の流儀」がスタート。

 

取材・文/市岡ひかり 撮影/植田真紗美