「子どもの頃は、笑顔の写真が1枚もなかった」と語るのは芸人・椿鬼奴さん。目立つことが嫌いだったと話す鬼奴さんが、進学校を卒業して、どのような道を経てNSCに入ることになったのでしょうか。鬼奴さんの子ども時代、芸人としてスタートにまつわるお話を聞きました。

目立つのが嫌だった

── 小さい頃はどんなお子さんだったんですか?

 

椿鬼奴さん:年子の弟がいたので、ケンカはよくしていましたけど、外では大人しい子でしたね。あと、笑顔の写真が1枚もなくて。笑えない子どもでした。

 

── 笑顔が苦手?

 

椿鬼奴さん:写真が苦手だし、理由がないのに笑う意味が分からなかったんですかね。

 

芸人になってから、スチールで笑わないと終わらないということに気がついて、そこからやっと笑顔が作れるようになりました。

 

── 学校は、進学校に進まれたとか。

 

椿鬼奴さん:中高は桐蔭学園という私立の学校で、お嬢様っていうか、進学校ですね。父が教育熱心だったこともあって、小学校のときに父の意向で受験したんですけど。そのときに勉強したら、中1から6年間勉強しなくていいと言われたから頑張って受験しました。

 

理由がないのに笑う意味がわかりませんでした

── そこから、現在は芸人として活躍されていますが、もともと芸能のお仕事を目指されていたんですか?

 

椿鬼奴さん:いえいえ。その日暮らしなんですよね。小さいときから「将来の夢は?」って聞かれるのが一番困りました。何もなりたくないな、と思っていたので、隣の子が書いていることを盗み見て、同じものを書いたりして。当たり障りのないようなことを。書かずに先生に怒られたくもないから、そういうことをやっていたのはよく覚えています。

 

── なんというか…少し醒めているような?

 

椿鬼奴さん:一生懸命やるのは嫌だったんですよね。毎日テレビを観たり、ゲームやったりして過ごせたらいいな、と思っていましたけど、そういうことを書いて、先生に注意されたりするのも嫌です。目立つのが嫌。

 

だから本当は働かずに暮らせたらいいし、就職活動もしたくなかったし。

 

大学卒業してすぐ、インターネットカフェでバイトをしていたんですけど、拘束時間が長くって。そこの会社はプロバイダもやっていたんですけど、今から30年前ぐらいはすぐにサーバーもダウンするから、苦情が多くてクレーム対応もしていました。対応に本当に疲れて喘息も起きてしまって、「きっとこれはストレスだ」ってやめました。

月給のほとんどが飲み代に

目立つことも好きじゃなかったと語ります

── では、大学を卒業されてしばらくしてから、NSCに入られたのでしょうか。

 

椿鬼奴さん:26歳のときですね。

 

それまでは大学の友だちのお父さんの会社で、ペットフード輸入の営業事務をやっていたんです。優しいお父さんで、2人も事務員はいらないのに、雇ってくれてたんですよね。

 

9時から5時までの仕事でしたが、朝行ったらお昼何を食べるか、お昼食べたら夜は何をするか、って話しかしてなくて。そのときは週4で飲んでて計算したら、月給のほとんどを飲み代に使ってるな、という状況。もったいないからフィットネスクラブに通ったりしてました。飲み代よりはお金もかからないし、週3回くらい泳げば、その時間も埋まるな、って。

 

でも、フィットネスクラブも飽きて、次のお稽古事を何しようかとなって。草野球チームを作りたいけど、友だちは別にやりたいわけじゃないし、って探していたら、友だちが「NSCの養成所があるよ」って教えてくれたんです。

 

テレビでお笑いを見るのが好きだったので、「行ってみたら?お笑いが好きな友達ができるかもよ」って。

 

── お友だちの言葉がきっかけだったのですね。当時、この方に憧れていた、というのはありますか?

 

椿鬼奴さん:高校のときに『夢で会えたら』を観ていたので、ダウンタウンさんとウッチャンナンチャンさん、野沢直子さん、清水ミチコさんが大好きだったんです。そのメンバーが出る番組もよく見ていましたね。

 

── NSCに入られたときは、ご家族に何か言われたりしました?

 

椿鬼奴さん:入ってから言いましたね。でも、どうせ言っても聞かないと思われていたので(笑)。

 

友達の言葉がきっかけで芸人の世界に

 

PROFILE 椿鬼奴さん

つばきおにやっこ。1972年生まれ。お笑い芸人。NSC東京校4期生。デビュー当時は「金星ゴールドスターズ」というコンビを組んでいた。ハスキーボイスが特徴。現在はピンのほか、「キュートン」のメンバーとしても活動している。
取材・文/ふくだりょうこ 撮影/坂脇卓也