心が追い詰められるなかで、息子は希望だった

── 幼い息子さんを抱えた状態では、療養することさえ難しかったと思います。その間、育児はどうされていたのでしょうか。
清水さん:息子はしばらく福島にある睦さんの実家に預かってもらいました。僕は当時暮らしていた川崎のマンションにひとり残り、彼女との闘病をつづったブログ『がんフーフー日記』を書籍化する作業を続けていましたが、体調的にはそれすらままならない状態でした。それでも、「睦さんが生きた証を残したい」「心配してくれた友達に本という形でお返ししたい」という思いがあり、何とか本にまとめて出版し、その後、地元の広島へ戻りました。
体調が少し持ち直したタイミングでハローワークへ行き、地元で仕事を見つけました。福島から息子を連れ帰り、実家で両親にみてもらいながら働き始めたんです。ですが、「息子のためにもここでイチからやり直さなければ」と気負いすぎていたのだと思います。結局、新しい環境に適応できず、うつを再発させて9か月で会社を辞めることになりました。
会社を辞めてからも、平日は療養のため広島市内に借りていたひとり暮らしの部屋で寝たきりで過ごしていました。週末だけ実家に帰って息子と過ごす。そんな生活でしたね。
── 心が追い詰められていくなか、やり場のない思いとどう向き合っていたのでしょう。
清水さん:目の前の現実に絶望しそうになることは何度もありました。亡くなった睦さんに対して「どうして自分をひとり残して、こんな大変な状況にしていったんだ」と理不尽な怒りを感じることすらありました。「自分が死んだほうがよかった」と思うこともありましたね。これからこの子を育てていくのに、あと20年どうするんだ、と途方に暮れていました。
── そうした極限状態で、清水さんをギリギリのところで踏みとどまらせたものは何だったのでしょうか。
清水さん:やはり息子の存在でした。ここで僕までいなくなったら、息子は幼くして両親を失うことになる。それだけは絶対に避けなければいけないと思いました。育てていかなければならないというプレッシャーはありましたが、救いのほうが何倍も大きかったですね。
もし彼がいなかったら、睦さんを亡くしたことは、本当に悲しいだけの話だったと思うんです。でも、息子がいたからこそ、僕も睦さんの家族も、その悲しみのなかで生きていく希望を見いだせた。ある意味、彼女は息子という形見を遺してくれたんです。みんなにとって、息子は光のような存在だったと思います。
取材・文:西尾英子 写真:清水浩司