生き様と死に様は、どこかでつながっている

── 闘病は患者本人だけでなく、一番近くで支える家族の心身もすり減らしていきます。当時、清水さん自身はどんな状態だったのでしょうか。

 

清水さん:仕事に没頭している間だけは現実から逃れられましたし、ブログを書くことも自分を保つ支えになっていました。でも実際には、五感を常に張りつめて、感情を湯水のように使っている状態でした。自分にとって出産もがん闘病も初めての経験で、さらに睦さんのご両親は高齢、すべてが自分の肩にかかっているという感覚がありました。

 

睦さんが死への恐怖をあらわにすることもありました。そんなとき、何か言葉をかけようとしても、何を言っても嘘になるような気がしてしまう。肩を撫でたり、手を握ったり、一緒に黙っていたり、本当にそばにいることしかできませんでした。その一方で、息子の世話も始まり、仕事をし、ブログも書く。彼女の病状がどう転ぶかわからないなかで、目の前で起きることに一つひとつ必死に対応していく日々でした。

 

自分の限界値を超えている自覚はありましたが「今は立ち止まれない」と思っていました。後でガタが来ても仕方がないというか、エネルギーと感情の前借りをしている状態というか。今振り返ると、異様なテンションで生きていましたね。

 

── そんな張り詰めた日々のなか、友人たちがサプライズでイベントを開いてくれたそうですね。

 

清水さん:睦さんが亡くなる2か月前のゴールデンウィーク、福島へ一時帰郷したときのことです。友人たちが「ヨメハゲ(=ヨメを励ます)フェス」と題したイベントを企画してくれて、実家近くの海沿いの公園に40〜50人ほどが集まってくれました。

 

公園で結婚式まで用意されていて。僕たちは式を挙げていなかったので、ドレスとティアラを身につけた睦さんは本当に嬉しそうでしたね。息子をみんなに見せながら「お母さんになったよ」と話していました。彼女がどれだけ周囲に愛されていたのかを実感しました。

 

「若くして亡くなってかわいそうだ」と言われますが、あんなふうに友人たちの愛情を一身に受け取る時間があったことは、ある意味で幸せだったんじゃないかなのかもしれないと思うんです。僕自身、「自分が死ぬときに、どれだけの人が集まってくれるだろうか」と少し羨ましくもありました。

 

── その後、治療と生活の拠点を、睦さんの実家がある福島県いわき市へ移します。別れのときは、どのように訪れたのでしょうか。

 

清水さん:フェスのときは嘘みたいに元気で、まさか2か月後に亡くなるとは思っていませんでした。僕自身、あと1、2年は一緒にいられるんじゃないかと思っていたんです。ところが、そこから一気に病状が悪化しました。

 

睦さんと息子が先にいわきへ移り、僕は会社の退職手続きなどのため川崎に残っていました。その最中、「睦の容態が急変した」と連絡があり、急いで向かいましたが、高速バスの中で「亡くなった」という連絡を受けたんです。最期には立ち会えませんでした。

 

ただ、立ち会えなかったことをそこまで悔やんではいないんです。睦さんは旅立つ前夜も「今は調子がいいから大丈夫。みんな帰って休んでね」と周囲に言っていたそうです。人に気をつかわせることを申し訳なく思う人でしたから、みんなを帰したあとにそっと旅立ったのも「彼女らしいな」と。生き様と死に様は、どこかでつながっているような気がします。

 

取材・文:西尾英子 写真:清水浩司