「物もお金も失って」見えてきた自分の道

ヤンキースタジアム 車いす席
アメリカのヤンキースタジアムでは車いす席が場内各所に分散。日本との観戦環境の違いに衝撃を受けた

── 絶体絶命のピンチをどう切り抜けたのですか。

 

佐藤さん:交番で相談した後、日本大使館へ行き、盗まれたトラベラーズチェックを再発行してもらうためロンドンの窓口へ電話しました。ところが、日本人担当者が2週間のバケーションに入ったばかり。英語も話せず、お金もない。絶望的な気持ちでした。

 

すると電話口の外国人スタッフが「スペルを1文字ずつ言うから、辞書を引いて会話しよう」と話してくれたんです。アルファベットを聞き取っては辞書を引き、言葉の意味を確かめながらやり取りを続けると、20万円のうち10万円は翌日、残り10万円も5日後には再発行できるよう手配してくれました。おかげで帰国せず、そのまま旅を続けることができたんです。

 

鞄を盗まれてからは、むしろ身も心も軽くなりました。荷物がなくなって車いすを漕ぐのが楽になり、出会ったバックパッカーたちにこのできごとを話すと大ウケして、いいネタになりました。何より大きかったのは、「(物やお金を失って)追い込まれても案外なんとかなる」と思えたことです。それまで、やりたいことがあっても失敗が怖くて、無難な選択肢を選んできましたが、異国で全財産を失っても人の助けを借りながら切り抜けられた。だったら安全策に逃げず「一番やりたいことをやろう」と、吹っ切れました。

 

── 海外で全財産を失うという最悪のトラブルが、結果的に人生の転機になったのですね。その後、一度は離れた障害者問題に関する活動に、再び向き合うことになります。これも海外経験が影響していたのでしょうか?

 

佐藤さん:ヨーロッパを回るうちに「この街では障害者がどう暮らしているのだろう」と気になり始めたんです。街で見かけると、つい後ろをついていってしまう。活動が嫌になって離れたはずなのに、じつは障害者のことが気になってしかたがないことに海外であらためて気づかされました。

 

帰国後は廉田さんと再会しました。彼は当時、障害当事者が地域で暮らすための自立生活支援などを行う、メインストリーム協会を立ち上げて活動していました。世の中の役に立つことを自分たちも楽しみながらやるスタイルが、僕にはすごくしっくりきたんです。卒業後は就職ではなく、協会への参加を決めました。

 

── 当時はバブル全盛期で超売り手市場でした。安定した就職先を選ぶ道もあったのでは?

 

佐藤さん:大手企業の障害者枠などもありましたが、一般的な会社勤めをしたいわけじゃないと感じていました。協会は立ち上げたばかりで給料の見通しもありませんでしたが、「一番やりたいことをやるんだ、生活はどうにかなる」と迷いはありませんでしたね。パリでのあの盗難事件があったからこそ、恐れずに飛び込めたのだと思います。

 

── その後も障害者の自立生活支援やバリアフリー推進に取り組み、現在は「DPI(障害者インターナショナル)日本会議」で活動されています。30年以上にわたってこの問題に関わり続けてきた原点はどこにあるのでしょう。

 

佐藤さん:やはり子どものころ施設で過ごしたあの4年間が大きいです。自分自身が不自由さややるせない思いを味わったからこそ、「他の人に同じ思いをさせたくない、障害があっても地域で当たり前に暮らせる社会にしたい」と強く思いました。メインストリーム協会で自立支援を進め、役所と交渉して介助制度を作ってきたのも、あの時の思いが大きな原動力になっています。

 

取材・文:西尾英子 写真:佐藤聡