「強くないですよ」と自身を評するのは、車いすバスケットボール日本代表として4大会連続出場を果たした京谷和幸さん。実はもともと、将来を嘱望されたJリーガーでしたが、22歳で事故により脊髄を損傷し、人生のどん底を経験したそう。そこから自分の弱さと向き合ったことで、新たな人生に這い上がってきたそうです。

事故直後は故郷に帰るつもりだった

京谷和幸
障がいのある子どもたちがスポーツを通じて社会参画する「きっかけプロジェクト」も展開する京谷さん

── 京谷さんは、Jリーガーとしてジェフユナイテッド市原と契約した2年後の1993年、不慮の自動車事故に遭い、脊髄神経を損傷して車いす生活に。サッカーをやめざるを得ない状況になりました。しかしその後、車いすバスケットボールと出合い、活躍されることになります。まず、車いすバスケとの出合いについて教えてください。

 

京谷さん:妻が障がい者手帳の交付の手続きをするために地元の浦安市役所に行ってくれたのですが、そのときの窓口の担当者の方が、車いすバスケチーム・千葉ホークス選手の小瀧修さんでした。小瀧さんは妻に「ご主人はサッカーをやっていたんだったら、車いすバスケという競技がありますよ」と紹介してくれたんです。

 

当時、僕は1日も早くリハビリをして社会復帰することを目標にしていて、スポーツのことは正直ほとんど考えていませんでした。ただ、リハビリ専門病院を退院して1か月が経ったころ、千葉ホークスの関係者から電話があって、「車いすバスケをやってみないか?一度、練習を見学に来てみたら?」と声をかけてもらいました。

 

最初は、車いすでバスケをすることが全然、想像できなくて。東京から、僕が生まれ育った北海道に戻ってのんびり暮らす選択肢も念頭にあったから、正直やる気はありませんでした。でも、チームの関係者が熱心に勧めてくれるので、練習を見てみたんです。そうしたら、チームには日本代表が何人もいて、スピード、パワー、テクニック、いずれもレベルが驚くほど高い。「これは無理だ。こんなのできるわけがない」と正直、思いました。

 

── 車いすバスケは動きが激しいイメージがありますが、やはりそうなのでしょうか。

 

京谷さん:実際、生で見たらとんでもなく激しいです。最終的にシュートを決めるわけですが、車いすに座ったままだとゴールのある場所まで、高く遠いんです。だから車椅子を走らせてスピードにのってシュートする。でも、相手にぶつかったらファールになるから、ギリギリのところでブレーキをかけないといけない。車いすバスケ用の車いすには、レバー式のブレーキが付いていないので、親指の付け根と握力を使ってグッと車輪(タイヤ)を握って止めるんです。たとえば自転車のタイヤを手で止められないと思うんですけど、そのくらいの勢いで、素手でタイヤを止めるんです。会場中には、タイヤの焦げた匂いがプーンと漂うくらい激しいです。

サッカーと真逆のルールに覚えた衝撃

京谷和幸
「もう無理だと思ったことはしょっちゅうあった」と話す京谷さん

── そこから、「車いすバスケットをやりたい」と思うに至ったきっかけは、何かあったのでしょうか?

 

京谷さん:事故が起きた1993年11月の半年後にリハビリ専門病院を退院したのですが、その1か月後、初めて千葉ホークスの練習を見学して2、3週間後にチーム関係者の方から突然、電話がかかってきて。「名古屋国体(国民体育大会)があるからチームに参加してくれないか」と言うんです。僕はバスケも始めていないし、競技用の車いすも持っていなかったんですけど、人数が足りないというので、ひとまず同行することに。

 

そのとき、日本最高峰の決勝戦を見て「これはすごいスポーツだ。もしかしたらサッカーに変わるものになるかも」と胸が震えたんです。試合中、選手たちはアスリートとして真摯に戦い、ハーフタイムにはコーチが緻密な指示をし、選手同士は濃厚な会話をし、その内容をしっかりとプレーで表現していました。こうした出来事は、僕が車いすバスケットに向き合うきっかけになりました。

 

── とはいえ、車いすに乗っての競技ですし、慣れ親しんだサッカーとはルールも大きく異なります。どういった点に最も苦労されましたか?

 

京谷さん:サッカーでは手を使ってはいけなかったのが、車いすバスケではすべてのことを手でやるという、そのギャップが一番大変でした。車いすを止める、ボールを取る、ボールを投げる。車いすを動かしているときにボールが飛んできたときも困ったし、車いすを動かしながら相手から瞬時にボールを奪い取ることも最初は戸惑いました。ただ、サッカーでは攻撃を組み立てる司令塔の役割をになっていたのですが、車いすバスケでも同じ役割を任されたことは、やりやすかったと思います。

 

── 初めての車いすバスケで、戸惑いや苦労を感じながら練習を積む中で、もう難しいかもしれないと思うことはありましたか?

 

京谷さん:しょっちゅうありましたよ。たとえば、素手でタイヤを止めるのがとにかく痛くて。何度も手のひらの皮がむけましたし、それでもテーピングを巻いてひたすら練習するしかない。それだけじゃなく、腹筋と背筋の機能が効かなくて力も入らないから、思った以上にボールが飛ばないし、イメージ通りにパスが出せない。「無理なんじゃないか」と何度も思いました。

 

でも、車いすバスケを続けるなかで「パラリンピックに出場したい」という目標が次第に芽生えたんです。「その目標達成のために、これは不可欠な練習なんだ」と自分に言い聞かせながらなんとかやっていました。

 

それに、「サッカー選手の妻として生きていく予定だった妻にいいところを見せたい」という思いもすごくありました。その後、生まれた娘や息子にも誇りに思ってもらえるような父親になりたいという気持ちも強かった。背負うものがふえ、自分だけの問題ではなくなったことで、使命感が強くなっていったのだと思います。「つらいから辞める」だとそこで終わってしまい、何も残らない。それは嫌だったので、ひたすら自分と向き合い続けました。

 

── 頑張り続ける京谷さんに、奥さんは何かおっしゃっていましたか?

 

京谷さん:チーム関係者に声をかけられて参加した名古屋国体のことを、当時、僕がよほど楽しそうに妻に話をしていたんでしょうね。妻が「サッカーをやってた頃の目に戻ってるね」と言ってくれたことは今でも心に残っています。

 

ありがたいことに、妻とは今も変わらず仲よく過ごしていますよ。出会ったときから変わらないですね。妻は、はっきりと物を言う、強い人で、ずっと尊敬しているし、本当に頼りにしています。

どん底で知った弱さも「あとは這い上がるだけ」

京谷和幸
中学校での講演会と車いすバスケットボール体験会の様子。子どもたちに自身の経験を話す機会も多い

── 1994年に車いすバスケと出合い、その6年後の2000年、シドニーパラリンピックに日本代表として出場されました。事故からは7年という期間に大きく飛躍されて、お話を聞きながら、京谷さんの強さにも触れたような気がしました。

 

京谷さん:強くないですよ。僕は自分の弱さをよく知っているんです。22歳でジェフユナイテッド市原とプロ契約をし、Jリーガーとして「これから」というときに、事故で脊髄を損傷し、車いす生活になってサッカーができなくなった。最初は「自分の足が動かなくなる」「サッカーができなくなる」という事実をなかなか受け入れられませんでした。

 

事故から約2か月後、担当医師から「これからは車いすの生活になります」と告げられたとき、僕は「はい、わかりました」とは答えましたが、あのときも医師の言葉は到底受け入れられず、少なくとも半年ほどはもがき苦しみました。ときに「サッカーができない自分には何もない」という大きな不安に襲われ、サッカーのことを思い出して泣く日々が続きました。人生のどん底に落ちたと感じたときでした。

 

そんなときに車いすバスケに出合い、その魅力を知ったわけです。最初は「早くうまくなりたい」と焦ったり、「もう逃げたい」という気持ちになったりしたけれど、必死にそんな気持ちと戦いながらも練習を積み重ねることで、どん底から「あとは這い上がるだけだ」と思えて。「上がり幅も一歩ずつでいい」という気持ちに変われたとき、這い上がれたと思えて、なんとか車いすバスケのプレイヤーとして再びピッチに立つことができました。

 

── 2000年のシドニーパラリンピック以降も、アテネ、北京、ロンドンと4つのオリンピック4大会に連続出場。2020年にはヘッドコーチとして、東京パラリンピックで車いすバスケット史上初という銀メダル獲得へと導きました。

 

京谷さん:2012年のロンドンパラリンピックが終わった後、サッカー界に戻りたくて、サッカーの指導者ライセンスを取ることにしたんです。ところが、翌2013年に2020年の東京パラリンピックが開催されることが決まり、車いすバスケの指導者として声がかかったんです。サッカーへの思いが強かっただけに悩みました。いろんな人に相談していくなかで、ある人に「サッカーと車いすバスケの両方ができる人って京谷さんくらいだよ?」って指摘されたときにハッとしたんです。「そうか、両方やっていいんだ」って。

 

結局、サッカーの指導は2013年から2021年まで、8年ほどやらせてもらうことができたのですが、途中2016年のリオデジャネイロパラリンピックで、車いすバスケのアシスタントコーチに就任して、両方の指導者を経験しました。

 

サッカーと車いすバスケを両立するときは、サッカーの指導者としてかかわるなかで学んだことが、車いすバスケでも生かせていると実感しました。たとえば、指導者としての考え方や価値観、選手との向き合い方は共通しているなと。特にコミュニケーションの面では、目線を一人ひとりに合わせて、選手の状態をまず知っていく。これはどちらの競技の指導にも欠かせないことです。

 

── 今後の目標を教えてください。

 

京谷さん:今は車いすバスケ男子日本代表のヘッドコーチを任されています。9月に世界選手権、10月にはアジア競技大会があるので、そこで世界トップ5に残ることが目標です。

 

人生の目標としては、会社を2年前に立ち上げて、パラスポーツを通じていろいろな障がいのある子どもたちにきっかけをつくるプロジェクトを展開しています。僕のように障がいを負ってどん底に落ちても、その先にこんなに打ち込めるものを見つけられた。そのことをより多くの子どもたちに伝えて、どんどん活動を発展させたいですね。

 

取材・文:たかなしまき 写真:京谷和幸