「阪神ファンなのにホーム側に車いす席がない、なんでやねん」が、スタジアムの車いす席不足の課題に向き合った第一歩だった佐藤聡さん。その後、障害当事者の全国組織(DPI日本会議)の事務局長として、新国立競技場への車いす席の増席や在り方について提言し、ユーザー目線に合った形を実現します。
甲子園なのに車いす席は敵チーム側だけって

── 9歳の事故で脊髄を損傷し、車いす生活となった佐藤聡さん。長年、車いす利用者を取り巻く環境改善に取り組み、国立競技場では約500席の車いす席の実現にも尽力しました。そんな佐藤さんにとって、スタジアムのバリアフリー改善の原点となったのが、阪神ファンとして通っていた甲子園球場での「好きな場所で応援できない」という不満だったそうですね。
佐藤さん:当時、甲子園の車いす席は3塁側にわずか12席しかありませんでした。3塁側はビジター側、つまり相手チームのファンが集まる側です。阪神ファンなのに相手チームのファンに囲まれ、アウェイな空気の中で観戦するしかない。本当は1塁側やライトスタンドから阪神を思いきり応援したかったんですが、車いすでは観戦場所を選べなかったんです。
しかも、その車いす席はネットに囲まれていて、まるで檻に入れられた動物のように感じました。試合を見ることはできても、決して楽しい席ではなかったんです。一般席のチケットを取って、友人に抱えてもらって席に着くこともありましたが、前の人が立ち上がるとグラウンドが見えなくなってしまう。「自分たちも好きな場所で、みんなと同じように応援したい」と、ずっと思っていました。
そんなとき、2007年から3年かけて甲子園が大規模改修されると知りました。それまで新聞などで改善を求める要望の声は目にしていましたが、なかなか変わらなかった。でも、全面改修ならチャンスがある。そう思って、当時活動していた障害者自身が運営し、重度障害者の地域生活やひとり暮らしを支援するメインストリーム協会の仲間と一緒に、阪神電鉄に要望しました。
── 球場側である阪神電鉄との交渉は、すんなり進んだのでしょうか。
佐藤さん:こちらが求めたのは「車いす席を増やしてほしい」「いろいろな場所に設けて、健常者と同じように見たい場所を選べるようにしてほしい」「前の人が立ち上がってもグラウンドが見えるよう、視界を確保してほしい(サイトラインの確保)」という3点でした。それまで駅にエレベーターを設置してほしいとJRなどに要望しても、門前払いされることも多かったんです。でも阪神電鉄はとても誠実で、何度も話し合いに応じてくれました。
そのなかで「じつは選手からも同じ要望が出ている」と言われました。その場で名前は明かされませんでしたが、僕はすぐに赤星憲広さんだと思いました。赤星さんは当時、盗塁した数だけ車いすを寄付する活動をされていましたから。当事者だけでなく、選手からも声が上がっていたことが後押しになり、交渉もうまく進んだのだと思います。
その結果、場内の約13か所に車いすの観戦エリアが設けられ、場所も選べるようになったんです。とくに嬉しかったの外野のスタンドです。阪神の攻撃時はファンが総立ちで応援しますが、車いすからグラウンドが見えなくなってしまう。球場側がその事情を理解し、前の人が立っても試合が見えるようにサイトライン(スタジアムや劇場などの観客席から前列の人などに遮られずにグラウンドやステージを見渡せる視線や可視線のこと)を確保してくれたんです。
前を気にせず見られる車いす 席の快感も…
── 念願だった1塁側から見渡したグラウンドは、それまでとどう違いましたか。
佐藤さん:車いす席の改善が進んだのは、赤星さんの後押しもあったからだと思っていたので、リニューアル後はどうしても赤星さんが盗塁する瞬間をこの目で見たかったんです。1塁側のチケットを取ると、本当に目の前で盗塁を決めてくれました。それまで3塁側から遠く眺めていたときにはわからなかったスタートを切るタイミングまでよく見え、「盗塁ってこういう瞬間に仕掛けるのか」と、知れて本当に嬉しかったですね。テレビではなかなか映らない選手の細かな動きまで見えて、球場で観戦する面白さを改めて感じました。
自分たちの交渉によって、車いすでも観戦する場所を選べるようになり、サイトラインも確保された。僕は「甲子園は日本の野球場で一番見やすくなったんじゃないか」と思って、かなり調子に乗っていたんです。ですが、その自信はアメリカの球場を見たことで一気に覆されました。
── その自信を覆したのは、何だったのでしょう。
佐藤さん:2013年にアメリカを訪れ、メジャーリーグの球場を3つ見て回ったのですが、車いす利用者にとって日本とは桁違いの環境が整っていたんです。どの球場にも500、1000席といった規模で車いす席が用意され、しかも好きなエリアを選んでチケットを購入できる。サイトラインもすべての席で確保されていました。甲子園で数十席増えたことを喜んでいた自分が、恥ずかしくなりました。
調べてみると、アメリカには総席数の0.5%以上の車いす席の確保やサイトラインを義務付ける基準があったんです。「世界はこんなところまで進んでいるのか」と、圧倒されました。一方、当時の日本の車いす席について定められていたのは、幅90センチ、奥行き120センチという1席分のスペースだけ。「設置すべき席数」の基準はありませんでした。
つまり、巨大なスタジアムに車いす席がひとつもなくても違法ではないということになる。「日本は遅れている」と思いました。それまでのように一つひとつ交渉していくのではなく、法律そのものを世界水準まで引き上げなければいけない。そう痛感しました。
── とはいえ、国の法律を動かすのは並大抵のことではありません。なにか道筋は見えていたのでしょうか。
佐藤さん:どうやったら法改正できるのか、当時はわかりませんでした。そんなとき、あるニュース番組で「東京五輪を機にもっと東京をバリアフリーな街にしたらいい」と、キャスターが話すのを聞いて「これだ!」と思いました。この機会を活用すれば、法改正まで持っていけるんじゃないか、と考えたんです。そこで「東京オリパラプロジェクト」を立ち上げ、世界基準の整備を働きかけると、メディアの取材が急増し、行政や議員も真剣に話を聞いてくれるようになった。五輪が大きな追い風になったんです。
新国立競技場で目撃した「夢のような光景」

── 実際に、新国立競技場の設計段階から障害当事者として議論に参加されたそうですね。ただ、当初は思い描いていたようには進まなかったそうですね。
佐藤さん:最初の基本設計では8万人規模に対して車いす席は120席しかなく、床の高さも決まっていてサイトラインが確保できませんでした。「出遅れた」と落胆していたところ、旧計画が白紙撤回されたんです。そこから設計チームと21回にわたるワークショップを重ね、意見を出し合いました。
── 最終的に約500席の車いす席が実現しましたが、じつは完成後にも心配していたことがあったとか。
佐藤さん:「こんなに作って埋まるのか、ガラガラだったら格好悪いな」と少し心配でした。でも、最初のイベントとなった嵐のコンサートの日、競技場前の広場に見たことのないほど多くの車いすユーザーが集まっていた。「アメリカで見た光景が日本でもできた」と、胸が熱くなりました。
── 佐藤さん自身、声を上げることで社会を変えてきました。その一方で、障害当事者が声を上げることに批判が向けられることもあります。こうした摩擦をどう見ていますか。
佐藤さん:1990年頃は、車いすで駅に行くと「ひとりで来るな」と駅員に言われ、戦わないと電車に乗れなかったんです。でも今はそんな駅員はいません。電車は「歩ける人の乗り物」から「みんなの乗り物」に変わったんですね。新しい仕組みに人の意識が追いつくまで摩擦は起きる。それも社会が変わっていく過渡期なのだと思っています。
取材・文:西尾英子 写真:佐藤聡