中学時代は特に酷かった── 。優秀な姉たちへのコンプレックスと愛されたいという不満から、何度も父親と衝突を繰り返したという金子恵美さん。しかし政界進出、結婚、出産を経て父娘の関係性は形を変えていきます。亡くなる前に父が母に伝えた「恵美は変わった」という言葉の意味と、父亡き8年後の今の心境を明かします。

 姉へのコンプレックスと父への反発

金子恵美
子どもの頃は人見知りでおとなしかったと語る金子さん

── 政治家として活動されていた金子さんのお父さんも、新潟県月潟村(現・新潟市)で24年間村長をしていたそうですね。金子さんとは衝突することが多かったとのことですが、金子さんから見て、どんなお父さんでしたか?

 

金子さん:体格がかなりガッシリしていて、自分の信念をしっかり持って、頑固なところは私も似ているような気がします。

 

── お父さんとうまくいかないな、と感じたのはいつくらいからですか?

 

金子さん:中学生くらいですね。私の反抗期がすごくて、父の洋服と一緒に洗濯して欲しくないとか、父としゃべってもあたりの強い言い方をするとか、ひどいときは父に回し蹴りをしたこともありました。

 

── …かなり激しいですね。思春期とはいえ、なぜそこまでお父さんにあたりが強くなっていたのでしょうか?

 

金子さん:私は三姉妹の末っ子ですが、2人の姉がすごく優秀だったので、強いコンプレックスを抱いていました。姉たちは勉強もできて、親戚からもかわいがられ、親からも期待されていました。いっぽう私は何をやってもうまくできず、人見知りで引っ込み思案。姉に対して嫉妬もすごかったし、「どうして父は姉たちと同じように私を見てくれないんだろう」って常にモヤモヤしていたんです。 

 

── その後、大学入学と共に上京して実家を離れますが、卒業してしばらくすると政治の世界に入っていくことに。

 

金子さん:反発していたとはいえ、政治の世界に入ったのは父の影響が大きかったと思います。子どもの頃から選挙や政治の世界が身近にあったので、「いつか自分も」と思っていました。

吹雪の中で街頭でのぼり旗を持ってくれた父

金子恵美
地元新潟にて稲刈りをする金子さん

── しかし、金子さんの政治家デビューは波乱のスタートだったそうですね。

 

金子さん:故郷の月潟村が2005年3月に新潟市と合併することに。その後、2007年4月に市議会議員選挙があり、父は出馬せずに、私が立候補しました。その頃は父への反発ということよりも、選挙に向けて頑張ろうと思う意識のほうが強かったと思います。

 

しかし、私の立候補について地元の方々に事前説明する前にニュースが流れてしまって。「順番が違う」「小娘が」と地元から猛反発を受けました。父が地元の人たちに説明に行っても総スカン状態で、父は心労でどんどん痩せていきました。

 

それでも私は選挙に出ることを決めたので、毎日街頭に立って演説をしました。1月、2月の新潟は雪がものすごいんです。雪が吹き荒れるなか演説をする私の横で「今、新風を!」と書かれたのぼり旗を持って、父はじっと立っていてくれました。かなり厳しい選挙でしたが、結果的に当選できたのは、この父のおかげです。

 

私が街頭に立っている姿に心が動いたというだけではなく、一時はそっぽを向いた地元の有権者が、心労で痩せながらもそれでも娘を応援し続ける父の姿を見て、票を投じてくれたのだと思います。10キロも痩せた父に申し訳なさがありましたが、当時のことはとても感謝しています。

 

── 市議会議員になった後はお父さんとの関係は変化しましたか?

 

金子さん:はじめは父が選挙に協力してくれたことで以前から続いていた父へのわだかまりがなくなり、父から政治の話など素直にアドバイスを聞いていたと思います。でも後に私が国会議員になって、あまりにもストレスが強い状況が続いていくと自分に余裕がなくなっていったんです。父の話に耳を貸さないばかりか、酷い言葉を吐くまでに。「村長だから国政のことなんてわからないでしょう!」と父を見下すような発言で、感情をぶつけていました。そもそも、国政や地方政治に上も下もないんです。今考えても、申し訳なかったと思います。

父の最期の言葉と亡くなって8年経った今の思い

── その後、議員を続けながら結婚、出産して家族を作ることに。自身が親の立場になって、お父さんとの関係が変わったと思うことはありますか?

 

金子さん:そうですね。私に子どもが産まれたことが大きかったですね。父はもともと息子たちで野球チームを作るのが夢だったんですが、うちは全員娘だったんです。だから、私が息子を産んだことがすごく嬉しかったみたいです。新潟に帰ったときに息子の顔を見せると、父がとても穏やかな顔をしているんです。これまで父には散々、心配や迷惑をかけてきましたが、これが唯一、自分にできた親孝行なのかなって思っています。

 

── その後、お父さんにがんが発覚します。

 

金子さん:父はもともと1日でウイスキーのボトルを3本開けるような酒豪でしたし、タバコはショートホープを1日80本吸っているような豪快な人でした。でも病気になってからは、どんどん小さくなっていくんですよね。父の病気がわかってからは定期的に故郷の新潟に帰省し、下のお世話からトイレの介助まで、できるサポートはしたつもりです。母からは「恵美がすごく変わった!とお父さん喜んでたよ」と伝え聞きました。

 

── 反抗期には娘から回し蹴りまでされたお父さんとのことで、子育てにおいて悩んだこともあったかと思いますが、晩年に献身的な娘の姿が見られて、さぞ嬉しかったでしょうね。

 

金子さん:父が亡くなる数日前にも新潟に行きましたが、父が「ありがとう。ありがとう。いっぱいありがとう」って言ったんです。なんで「いっぱい」と言ったのかわからないですが、ちょっと泣いていたのが、私が見た父の最後の姿です。私が東京に戻って数日後に亡くなりました。

 

── お父さんが亡くなって今年で8年経ちます。幼少期は優秀な姉へのコンプレックスなどからお父さんに関して複雑な感情を抱いていましたが、今はどんな思いを抱いていますか?

 

金子さん:「感謝」ですね。後悔もありますが、それ以上に感謝の気持ちが大きいです。父と私は少し頑固なところが似ていましたし、三姉妹のなかでも私が一番父と衝突していました。でも、いざというとき、父はいつも助けてくれました。選挙のときだけでなく、夫のスキャンダルの際も実は父が家族の方向性の舵を取ってくれたんです。

 

生前はそんな考えはなかったのですが、父が亡くなってから、何か大変なことが起きると「父ならどうするかな」と想像することがあります。その瞬間、言葉がポッと浮かぶことがあって。「父のアドバイスかな」って思ったりします。

 

息子は10歳になりましたが、父にそっくりなんですよ。「ちょっと怖いな」と思うくらい表情や仕草、口癖まで似ていて、まるで父が息子のなかに入っているんじゃないかなと思うことも。今も、父が心の中に生きていると思っています。

 

取材・文:松永怜 写真:金子恵美