「このままいけば、いつかは歩けなくなるだろう」という心の準備はしていたつもりでした──。3歳で進行性の難病・筋ジストロフィーと診断され、小学校卒業後には歩行が難しくなった平野誠樹(もとき)さん。いつか来るとわかっていた現実でしたが、受け入れることができなかったそうです。「ただ生きている」そんな人生を変えたのは「電動車椅子サッカー」との出合いでした。
「歩けない」自分を受け入れられなかった

── 全身の筋肉が徐々に低下していく難病・筋ジストロフィーと診断され、小学校卒業後には歩けなくなったという平野さん。病気がわかったのは、何歳のときですか。
平野さん:診断されたのは3歳のときでした。もともと兄と比べて動きが遅いことを両親は気にしていたそうですが、私は小さかったので、当時は病気のことを何もわかっていませんでした。歩行はやや内股気味でしたが、歩くことはできていたので。でも、転びやすかったり、運動会ではいつも最下位だったりしたこともあり、ほかの子より筋力が弱いことは子どもながらに感じていました。
筋力の低下に伴いできないことが増えていきましたが、小学校を卒業するまではなんとか自力で歩けていたんです。でも春休みに入ると筋力が一気に落ちてしまい、歩けなくなりました。中学校の入学式で、なんとか10メートルほど歩いたのが、自分の足で歩いた最後でした。
── もう自分の足では歩けないとわかったとき、どんなお気持ちでしたか。
平野さん:症状は徐々に進行していたので、「このままいけば、いつかは歩けなくなるだろう」という心の準備はしていたつもりでした。でも、実際に歩けなくなると、まるで違う人間になってしまったような感覚で…。車椅子を利用して生活する必要があったのですが、そんな自分を受け入れられず、「車椅子には絶対に乗りたくない」と言い張っていました。
そのため、家から学校までは母が送り迎えをすることに。学校に着いたら先生が私を背負って教室まで連れて行ってくれました。帰りは母が迎えに来るまで教室でひとり、ずっと座って待っていたのを覚えています。
歩けないので、最初はトイレすら我慢していました。でも見かねた先生が昼休みに連れて行ってくれるようになりました。先生方は、嫌な顔ひとつしないで助けてくれましたが、そんな姿を見てきたことで、「先生方にこれ以上負担はかけられない」と思い、そこから車椅子に乗る決心をしました。
「ただ生きているだけ」の人生を変えた「黒船」
──「絶対に乗りたくない」と拒絶していた車椅子ですが、実際に乗ったことで生活は変わりましたか?
平野さん:いや…それが、私の場合は全身の筋肉が弱くなるので、手動車椅子を自分ではこげないんです。誰かに押してもらって移動するしかなくて、自分の人生なのに、相変わらず自分で進んでいる感覚がない。結果的に、今では考えられないくらい、どんどん内向的な性格になっていきました。クラスメイトとも話せないし、自分からコミュニケーションもとれない。「ただ生きているだけ」。そんな毎日だったと思います。
それでも、変わりたい気持ちはあったのですが、どうすればいいかわからなくて。介助をしてくれる母に、「どうして自分からもっと動かないの?」と言われるたびに、自分でもどうしていいかわからず、そんな自分に腹が立って、イライラしてしまっていました。母はきっと「この子は将来どうなるんだろう」と心配していたと思います。
── そんなどん底にいた平野さんですが、電動車椅子サッカーに出合って人生が大きく好転します。始めたきっかけはなんだったのですか?
平野さん:筋ジストロフィーの当事者の集いでキャンプに参加したんですが、そのとき、先輩たちが電動車椅子に乗っていたんですよ。それを見た瞬間「なんだこれは!」と(笑)。「日本が初めて黒船を見たときって、こんな衝撃だったんじゃないか」と思うほど、電動車椅子に乗る先輩たちがかっこよく見えました。
気になって話を聞いてみたら「サッカーをやっているんだ」と。もともとスポーツ観戦は好きでしたが、車椅子生活でスポーツなんて考えたことがありませんでした。それが突然「自分にもスポーツができる可能性」がやってきた。話を聞いて、ワクワクしました。すぐに練習を見学しに行き、その日に「入部させてください」と監督にお願いしました。
同時に、親に頼んでアメリカ製の電動車椅子を買ってもらい、17歳で競技を始めました。それまで、「自分では前に進むことができない」と思い込んで、「ただ生きているだけ」のような日々を送っていましたが、電動車椅子サッカーに出合って、人生が大きく変わりました。全国大会優勝を目指して戦えるスポーツが、私に明確な目標を与えてくれました。そのとき初めて「自分には生きる意味がある」と思えたんです。
初めて所属したチームで全国大会に出場し、日本一になるという目標を達成することができました。チームで横浜市長に表敬訪問までしたんですよ。もし電動車椅子サッカーに出合っていなければ、まず経験できなかったと思います。私の人生で、とても大きな出来事でした。
「ここにいたらダメになる」アメリカで変わった価値観

── 電動車椅子サッカーに打ち込みながら、無事に高校を卒業。その後はアメリカへの留学を決断されます。
平野さん:実は高校在学中に、母が日本とアメリカの障がい者同士が交流するプログラムを見つけてくれて、7日間、アメリカ・オレゴン州へ行ったことがありました。そこで見た景色が、日本とはまったく違ったんです。
バスには当たり前のように車椅子用のリフトがついていたし、乗車時に少し時間がかかってしまっても、他の乗客は誰ひとり嫌な顔をしないんです。当時の日本は、バリアフリーという言葉がまだ今ほど浸透していなかった時代です。街中で車椅子の人が生き生きと暮らしている姿を見て「こんな社会があるんだ」とカルチャーショックを受けました。
でも帰国後に待っていたのは厳しい現実です。もともと高校卒業後はスポーツジャーナリストを目指して専門学校に通おうと思っていたんです。でも受験しようと思ったら「車椅子は受け入れられない」と断られてしまって。
やりたいことがあっても、そのたびに誰かにお願いしなければならず、それでも前に進めるとは限らない。「ここにいたらダメになる。アメリカへ行こう」と。
── とはいえ、車椅子での留学です。進路選びは大変だったのでは。
平野さん:それが、偶然にも留学を斡旋する専門学校からセールスの電話がかかってきたんです。留学に必要な語学を学びながら、留学準備をサポートしてもらえる学校だと聞いて、話を聞きに行きました。そうしたら、アメリカ人の校長に「入学にはひとつ条件がある」と。それが「自力で学校に通うこと」でした。
そう言われて「よし、行ってやる」と決めて、横浜の自宅から新宿にある学校まで、毎日電車で通いました。満員電車で人に押されたり、舌打ちされたりしたこともありましたが、「意地でもアメリカに留学してやる」という思いで、1年半頑張って通いました。卒業後は、アメリカのカリフォルニア州サンディエゴの語学学校へ留学することになりました。
「弱音だけは吐かない」と決めた留学生活経て
── 念願の留学生活はいかがでしたか。
平野さん:障がい者に理解がある国とはいえ、実際生活するなかで壁はたくさんありました。まず、私は自分では体が動かせないため、アメリカでひとりで生活するには、24時間体制でついてくれるヘルパーさんが必要です。日本では情報がなかったので、とにかく現地へ行って、ヘルパーさんを探すことにしました。
当初、現地に付いてきてくれた母は、厳しい現実を目の当たりにして、「諦めて、『帰ろう』と言うだろう」と思っていたそうです。でも、私は「弱音は吐かない」と決めていました。満員電車に揺られながら専門学校へ通い、「絶対に留学する」と決めて頑張ってきたので、簡単には諦めたくなかったんです。
ようやく見つかったヘルパーさんが突然、逮捕されてしまうという事件がありましたが、その後、信頼できる方に出会うことができました。語学学校から短大に入学し、卒業後は4年制大学に進むつもりでした。アメリカでも電動車椅子サッカーのチームに所属して、競技も続けていました。ところが、信頼していたヘルパーさんが病気で亡くなってしまったんです。代わりのヘルパーさんが見つからず、残念ながら帰国することになりました。
── 大変な経験をされましたね。
平野さん:そうですね。でも、アメリカへ留学したことで、自分に自信が持てるようになりました。アメリカでは、自分の考えを言葉にして伝えることが大事です。コミュニケーションが苦手だった私にとって、その経験は土台になっています。
留学中に、電動車椅子サッカーをライフワークにするきっかけになった出来事もありました。当時はまだ国際大会がなかったので、日本チームをアメリカの全米選手権に招待して参加したのです。その経験が、今の電動車椅子サッカーを国際的に普及させるための活動につながったと思います。
帰国後は、横浜のチームで代表権監督を務め、4度の全国制覇を達成しました。現在は、株式会社マルハンで、障がい者スポーツ推進担当として在宅勤務をしながら、講演活動をしています。これからも、講演や講義などを積極的にやっていきたいと思っています。昔の私のように下を向いている人に、何かきっかけを届けられる人になりたいですね。
取材・文:林優子 写真:平野誠樹